その1
楽しくなけりゃ保育じゃない!!
子どもたちも、教師たちも、そして親たちも、さらに広げて地域のすべての人たちも含めて、子育てを楽しみ、子育ての喜びや感動を分かち合うのが、幼稚園という場です。
その2
子どもの自主性に任せる保育
子どもは一人ひとり、その子にしかない、その子だけの、その子らしさをもって生きて、精一杯に毎日を生きています。その子の個性や人格を、最大限認めること。その子のたった一回きりの人生を、その子にふさわしく、生き切る生活を大切にしたいのです。
その3
子どもの自由を尊重する保育
その子のいたい所にいたいだけいる自由、その子の行きたい所に好きなように行く自由、その子のしたいことをしたいだけする自由、やりたくないことはやらない自由、何時でもやれる自由と何時でもやめられる自由と、自由とは他人が勝手に干渉したり、妨害したりしないことです。
その4
三つの自由を保障する保育
時間と仲間と空間という三つの「間」の自由。自分のしたいことをしたいだけやる時間の自由。自分の好きな仲間と思う存分に遊んだり活動したりする自由。自分の体を充分に動かして好きなだけ動き回れる、空間を支配する自由。
その5
自然のもつ教育力に委ねる保育
子どもは豊かな自然環境のなかで、豊かな遊びの生活を体験することによって、幼児期に必要な育ちを、自分の力でつかみとっていくのです。 自然に全身を投げ出して、夢中になって遊ぶ生活のなかから、子どもはさまざまな感覚や法則を学び取っていくのです。
その6
子ども同士が育てあう保育
子どもは同年齢同士の仲間との関係を通して、実に多くのことを学んでいきます.やったりやられたり、泣いたり泣かされたり、物のとりあいやら、場所の奪い合い、順番や遊びの決まりごと等々、子どもは仲間とぶつかり、対立し、やりあいながら、していいこと、悪いこと、言っていいこと、いけないこと等について、程ほどの感覚を身に付けて社会化していくのです。
その7
子どもの文化を創造していく保育
その8
子どもの自律を援助していく保育
その9
子どもの手を生き生きと使わせる保育
その10
子どもの感性を育てる保育
その11
集団のダイナミズムを育てる保育
その12
子どもを人格的責任主体として育てる保育
以上、細細と記しましたが、要するにめばえの保育とは、
徹底的に子どもの側に立つ保育なのです。
大人や教師が子どもの上に君臨して、あれこれと命令したり、
指示を与えたり、禁止や制止によって、子どもをあやつったり、動かしたりする、
教師中心主義の保育とは正反対の保育です。
そんなことをしていたら、子どもは言うことをきかなくなって、
けじめのない、だらしない子どもに育ってしまうだろう、
という批判は開園当初から現在まで約70年間、ずっと言われて参りました。
しかし、これは単なる教育や指導の技術の問題ではなく、
人間観と子ども観という根本的な考え方の問題です。
子どもを知識や技術を注入される入れ物と見る、または一方的な枠はめによって、
形どおり設計図通りに形成されていく、粘土細工のようなものと見るか、
それともかけがえのない尊厳にみちた人格主体と見るか、という基本的な哲学の問題です。
私たちはどうしても譲れないものを、ただ単純に大切にしているだけなのです。
以上、細細と記しましたが、要するにめばえの保育とは、徹底的に子どもの側に立つ保育なのです。大人や教師が子どもの上に君臨して、あれこれと命令したり、指示を与えたり、禁止や制止によって、子どもをあやつったり、動かしたりする、教師中心主義の保育とは正反対の保育です。
そんなことをしていたら、子どもは言うことをきかなくなって、けじめのない、だらしない子どもに育ってしまうだろう、という批判は開園当初から現在まで約70年間、ずっと言われて参りました。
しかし、これは単なる教育や指導の技術の問題ではなく、人間観と子ども観という根本的な考え方の問題です。子どもを知識や技術を注入される入れ物と見る、または一方的な枠はめによって、形どおり設計図通りに形成されていく、粘土細工のようなものと見るか、それともかけがえのない尊厳にみちた人格主体と見るか、という基本的な哲学の問題です。私たちはどうしても譲れないものを、ただ単純に大切にしているだけなのです。
以上、細細と記しましたが、要するにめばえの保育とは、徹底的に子どもの側に立つ保育なのです。大人や教師が子どもの上に君臨して、あれこれと命令したり、指示を与えたり、禁止や制止によって、子どもをあやつったり、動かしたりする、教師中心主義の保育とは正反対の保育です。
そんなことをしていたら、子どもは言うことをきかなくなって、けじめのない、だらしない子どもに育ってしまうだろう、という批判は開園当初から現在まで約70年間、ずっと言われて参りました。
しかし、これは単なる教育や指導の技術の問題ではなく、人間観と子ども観という根本的な考え方の問題です。子どもを知識や技術を注入される入れ物と見る、または一方的な枠はめによって、形どおり設計図通りに形成されていく、粘土細工のようなものと見るか、それともかけがえのない尊厳にみちた人格主体と見るか、という基本的な哲学の問題です。私たちはどうしても譲れないものを、ただ単純に大切にしているだけなのです。