保育の変革をめざして
<箕田エツの実践から>
昭和42年の関東地区私立幼稚園教員研修大会において研究発表を行った、箕田エツの提案のあらましをご紹介します。 この提案のもつ意味を、まず始めに明らかにしておきます
1.カリキュラム会議における箕田の提案
毎週行われていた学年毎のカリキュラム会議において、箕田が新しい提案をしたのは、その年の4月初めのことです。 彼女は、それまで毎年専ら1年保育の5才児担当を続けてきました。そして常々「1年保育の子どもたちって、これから面白くなる!という時期になると卒園しちゃうのよね。」とこぼしていました。 そして、その年の初めての年長組担当教師たちの職員会議において、『2年保育と3年保育の年長児たちと1年保育の子どもたちとは、園生活の経験の違いとそれなりの発達の違いがあるので、学年のカリキュラムを立てる時に、1年保育については、私なりに考えていきたいので別にしてほしい。これから子どもたちの生活に、エンジンがかかり始めるという時に、卒園を迎えるような空しさを味わうのはごめんです。』と発言して、皆の了解を求めたのです。 他の教師たちも、それに同意しました。1年保育の場合、3,4才児が入園当初に経験する、何もかも初めてという、とまどいや不安定さを充分に体験させる必要があるという結論でした。 私たちは、入園してくる子どもたちが一日もはやく園に慣れること、そして自分の本音と地金を出してくれること、そこから一人ひとりの「その子だけに特有の」生活、その子ならではの生活と育ちが「始まる」と考えてきました。1年保育で入園してくる5才児たちも、同じように一人ひとりが自分の地金を出し切れる園生活のスタートが必要である、という認識において全員の思いが一致したのです。
2.箕田の実践のあらまし
テーマ「ごっこ遊びの実践記録より」
概 要
その年の1年保育の子どもたちは、5月初めには全員が名前を覚えていて、「今日は○○ちゃんがお休みだ」とか、「○○ちゃんは、今どこどこで何々をして遊んでる」とかと、お互いのことがよく分かっている子どもたちでした。 6月の下旬 子どもたちのあいだに、パーマン遊びが大流行。制服の両袖を脱ぎ、マントのようにして両手を広げて走り回っている。(6/20~6/26)
空を飛ぶパーマンにちなんで、空について話し合い、壁面のボード作り「大空」に取り組む。星、月、にじ、雲、飛行機、ロケット、宇宙人、けん牛、おり姫など、自分の好きなものを描いて切り抜き、貼っていく。(6/27~29) 空き箱とラシャ紙で大きめのロケットを作り、輪つなぎの間につるす。 ロケットの歌をみんなで作り、曲をつけて歌い、間奏の時に好きなところをとびまわってくる。隣の年少組の保育室が2つ空いていたので、そこをまわってくる。
(1)ロケット ビュン ビュン ビュン / ビュン ビュン / はやいな ビュン ビュン / ぼくも宇宙へ行きたいな。
(2)ロケット ビュン ビュン ビュン / ビュン ビュン / はやいな ビュン ビュン / もうすぐ着陸 うれしいな / エンジンかいちょう!!
7月上旬 「ロケットにのって」の絵本を読んだ後、「宇宙船あそび」の表現遊びをして皆で月の世界に行く。
(7/1~3) オルガンが入っていた大きなダンボールでロケットを作る。子どもが2人乗れて、4、5人の子どもたちが揺り動かす。他の子たちは画用紙を丸めた望遠鏡でロケットの行方を追っている。しかし遊び始めるとすぐに壊れてしまう。
(7/6) もっと丈夫なロケット作りに取り組む。星の観察に興味を持ち、プラネタリュウムづくりも始まる。4グループで黒のラシャ紙に星を切り抜き、裏に黄色の紙を貼って、保育室の天井に貼り、椅子を並べて観察する。
(7/7) 月の世界についての言葉集めをする。園ではまったくの無表情であったK君が、家で母と一緒に「月の世界探検」の詩を作ってくる。
(7/11~12)
(1)月の世界についたぞ、みんな元気に歩こうよ。よくみて よくみて 歩こうよ 何があるのか さがそうよ
(2)月の世界の探検だ うさぎかそれとも宇宙人 よくみて よくみて 歩こうよ 何があるのか さがそうよ この歌に教師がその日のうちに曲をつけて、皆で歌う。
(7/17) ここで夏休みに入る。
9月上旬 2学期になったが、子どもたちはロケット遊びを忘れていない。すぐに続きに入る。そして月にいるものを歌にしていく。
(9/7~16)
○ 怪獣のうた
おいらはかいじゅうだ。おいらはかいじゅうだ。にんげんさまを食べちゃうぞ。 ○ 宇宙人のうた 僕らは宇宙の王さまだ。怪獣なんかに負けないぞ。さあさあ地球のおきゃくさま。仲良く一緒に遊びましょう。
○ うさぎの歌
さあさあおもちがつけました。おいしいおだんごめしあがれ
9月下旬 劇遊びに発展していく。.皆でストーリーを考える.。自分のなりたいもののお面を作る。T君が劇の最後に仲良く皆で歌って踊るときの歌を作った。
「怪獣さんも みんな仲良くなった。みんなでおどろう。なかよくおどろう。元気におどろう。うさぎさんも かいじゅうさんも 人間も 宇宙人も みんなで みんなで みんなでおどろう」 以後、12月のクリスマス祝会での劇遊びにつながっていく。 このような、子どもが主体となって遊びと生活を生み出していくなかで、一人ひとりの子どもが自分の個性を発揮し、友だちと協力し、自分の内にあるものを自由に伸び伸びと表現したりしながら、自分で自分の育ちをつかみとっていく姿を明らかにしていったのです。
3.評価と反省
箕田の提案は、子どもの社会性の発達に視点をおいたものでした。 仲間との生活を通して、子どもの社会性はどのように育っていくのか、を明らかにしようとしたのです。 箕田はたまたま「パーマン遊び」という、子どもたちがその当時のテレビ番組の影響で流行していた、単純で何の発展性もない繰り返し遊びに着目して、「空」「宇宙」「月探検」と子どもたちの意識を広げていくなかで、子どもたちが夢中になって取り組む集団遊びに発展させていったのです。 遊びのきっかけは子どもたちの生活のなかにありました。 しかし、その遊びは「つまらないもの」でした。放っておけば当然のことですが、やがて消えていくものでした。その「つまらない」「一時的で単純な」遊びを、箕田は1学期から2学期にまたがって、子どもたちが夢中になり熱中して遊び込むことのできる遊びに変えていったのです。 子どもたちは確かな「めあて」をもち、目的意識をもって、自分たちの遊びに必要なさ様々なものを作り、遊びをさらに楽しいものにするために、一人ひとりの特性や個性、能力が発揮されて、集団としての組織をもつ質の高い遊びに発展したのです。 子どもたちが、めあてをもって遊びに取り組む時、そのめあてに迫っていくために必要な話し合いをし、役割や分担を決め、必要な仕事に取り組んでいきます。 提案のまとめのなかで、箕田が語っていたのは、おおよそ次のようなことでした。 子どもにとって「仕事」は「遊び」です。そして「遊び」は子どもの「生活」そのものです。この遊び―仕事―生活という発展と循環のプロセスのなかで、話し合いが猛烈に行われ、めあての再検討とか再修正とかをめぐって「ぶつかりあい」や「対立」が起こり、時にははげしい「けんか」まで起こります。子どもたちは実に真剣に、自分たちの遊びに取り組んでいるのです。自分のことだから、いい加減なことではすまされないのです、と。 集団のなかで、共通の目的意識をもって、子どもたちがそれを達成するために、必要な様々の手立てや手段、方法を考え出し、一人ひとりの持っている能力を出し合っていく、その全てのプロセスのなかに、子どもの成長と発達に役立つ、実に豊かな学習体験が秘められています。 箕田はさらに語っています。子どもたちが、確かな値打ちと内容のある遊びをつくりだしていくために、教師はありとあらゆる創意と工夫を迫られ、骨身をけずり、やせ細る思いを経験していくのです、と。 そのような悪戦苦闘の保育実践のなかから、箕田の実践と提案が生まれたのです. しかし、当時の研究会では、何の反応も評価もなく、完全に無視され、あきれられて、何の質問も反論もありませんでした。10年程早すぎたのでした。その後、日本の幼稚園界にも、徐々に総合活動とか幼児主体の生活とかという問題意識が出てきたのです。
4.箕田実践から学んだこと
(1)子ども主体ということ
幼稚園の生活とは、子どもたちが主人公であり、子どもたちが「生み出していく」ものである、という教育活動における最も基本的な原則を皆で確認したことが、箕田実践から学んだ大きな収穫でした。いわゆる「発生的カリキュラム」への開眼でした。 教師が与えたり、指示したりする生活や活動ではなくて、教師は子どもと共に生活しながら、子どもの興味・関心によりそって、子どもが夢中になって取り組める遊びや活動を、子どものなかから「引き出してくる」のです。 子どもたちのあるがままの生活や遊びのなかから、その時々に子どもたちの発達の姿に、もっとも適した活動が子どもたち自身の願いや要求に根ざした興味・関心に支えられて「発生してくる」のです。その活動や遊びを子どもの発達を支え充実したものにしていくように援助していくのが教師の仕事なのです。 遊びをもっと楽しいものにし、子どもの発達を豊かに促していくような、新しい課題や視点の転換をさりげなく提案したり、その遊びがもっと楽しくなり、さらに大きく多様な課題を持つものに発展していくように、援助していくのです.時には、子どもたちに重い困難な課題の解決を迫っていくこともあります。「あなたにはこれができる筈です。やってごらん」という要求を子どもたちにつきつけるのも、教師にとって不可欠な子どもへの援助です.自分が選び、自分が決めた活動に、自主的・意欲的に取り組んでいる子どもは、当然のことながら、自分のこととして、教師の提案を受け入れ、自分自身の課題として引き受けて、挑戦していきます。 そうした教師と子どもとのやり取りの中に、「響きあう人間関係」が生まれてきます。 教育とは「響育」であり、「共育」でもあります。教師は子どもによって育てられていくのです。心と心とが響きあう関係のなかで、子どもに学び、子どもによって育てられ、子どもと共に生きる教師は、子どもが自分自身の力によって育つのを「待つ」教師であり、「支える」教師であります。
(2)教師の柔軟性と自由について
箕田がこの実践に取り組んでいた最中に、「毎晩、11時12時まで、明日の子どもたちの活動を見通して、ああでもない、こうでもないと、幾つもの指導プランを考えてきたが、毎日のように子どもたちは私の見通しと指導案のすべてを乗り越えていった。私の予想した指導プランは子どもたちのものすごいエネルギーによって、いつもひっくりかえされてしまい、毎日にように子どもたちに乗り越えられてしまった。いっそ、指導案なんか考えないほうがいいのかしら」ともらしたことがある。 そうではなくて、教師の側に確かな見通しと豊かな願いがあり、教師の予想を越えていく子どもたちの要求にたいして、多様な対応が可能であるからこそ、子どもたちは教師の思いと響きあうようにして、自分たちの生活と活動に向かって精一杯の喜びと感動をもって取り組んでいったのだということです。指導計画や教材研究の大事さと、それに固執したりこだわったりしないで、子どもの自由で柔軟な発想や思いに対する教師の柔軟性と自由さが大切なのだといことを皆で確認しあったのです。
(3)教師が変わると子どもが変わる
昭和38年の新学期に、私たちはそれまでのカリキュラムの見直しをおこない、指導案にとらわれない指導、教師が立案した活動計画に固執しない指導を、原則とすることを確認しました。 しかし、そのためには子どもの視点にたち、子どもの願いや要求をどこまで読み取れるか、そして子どもの興味や関心に則して日々の保育を展開していくには、どうすればよいのかを徹底的に話し合うことにしました。 週に一回、時間を決めて遊びの観察記録をとり、一人一人の記録をもとに、検討会をやりました。そこで分かったことは、子どもの遊びを見る目の甘さと浅さでした。見ているつもりでも肝心のところが抜けていたり、その遊びのもつ意味や価値に気づかなかったりということが明らかになったのです。 昭和40年、41年と毎晩夜遅くまで職員会議をやりました。今日の子どもの姿を皆が出し合い、明日の活動への見通しを立てる、という作業でした。時には、園に泊まってしまうこともありました。それは実に厳しい営みでした。 一人ひとりのその日の実践を徹底的に分析し、時には「私ならこうしたい」「なぜその時あなたはそのような対応をしたのか。あなたの子ども観や指導観が問題なのではないか」というような、ぎりぎりの相互批判もしばしば行われる場でした。 その結果は実に驚くべきことでした。 子どもたちが変わってきたのです。子どもたちの目が輝きはじめ、子どもたちの活動がびっくりする程ダイナミックなものになってきたのです。 そういう子どもたちの姿に励まされ、力づけられて、私たちはめばえの保育の変革に取り組んできたのです. 昭和40年から毎年、各学期毎にまとめてきた実践総括の資料は、数万ページに及ぶ膨大なものになりました。それらの資料の一枚一枚に、その時々の教師たちの子どもたちによせた熱い思いと感動、そして汗と涙が込められています。 めばえ幼稚園はこの50年、本当にすばらしい教師たちに恵まれてきました。 いつの日か、その貴重な実践記録を日の当る場所に出したいと願っています。
(4)理論化を求めて
子どもの自主性や主体性と自由を保障する保育が、こんなにも大きな変化を子どもたちにもたらすのは何故なのか、という驚きの思いから、子どもの教育とはいかにあるべきなのか、という問いをもって、保育の理論を求め始めたのです。昭和42年から元白梅女子短大教授久保田浩先生をお招きして、常磐地区私幼協会の研究会が始まり、久保田先生の構造論や保育理念に大いに教えられました。 また、イギリスの自由教育の実践家ニールの著作を始め、ペスタロッチ、フレーベルや日本の幼児教育の先達たち、倉橋惣三、和田 実・梅根 悟その他、さまざまの哲学者、文化人類学者、現象学者らの本を手当たり次第に読んで、人間の教育のあるべき姿を求めたのです。 そのプロセスで出会ったすばらしい本の数々の中から、私たちの保育を組み立てていくために役立ったものを、ほんの僅かですが参考資料としてまとめてきました。その多くは私が白梅女子短期大学の講師時代に、レジメとして用いたものです。 めばえ幼稚園の設立50年という機会に、それらを一冊にまとめておこうと思いたった次第です。 なかには、とても読みにくいものもありますが、そういうところは飛ばしてお読みください。行間をとおして私たちが求めてきたものを、お読み取り頂ければ幸いです。ともに子どもの幸せを願って保育や子育てにかかわっておられる方々に、他山の石として、少しでも参考になれば幸いです。どうぞご批判とご指導のほど、よろしくお願いします。 注 すばらしい保育実践をされた箕田エツ先生は、昭和38年5月から44年12月まで、めばえに勤務され、その後10万人に一人と言われるような奇病にかかられて、召天されました。彼女は敬虔なクリスチャンでした。謹んで姉妹のご冥福をお祈りいたします。
保育の変革をめざして
<箕田エツの実践から>
昭和42年の関東地区私立幼稚園教員研修大会において研究発表を行った、箕田エツの提案のあらましをご紹介します。 この提案のもつ意味を、まず始めに明らかにしておきます
1.カリキュラム会議における箕田の提案
毎週行われていた学年毎のカリキュラム会議において、箕田が新しい提案をしたのは、その年の4月初めのことです。 彼女は、それまで毎年専ら1年保育の5才児担当を続けてきました。そして常々「1年保育の子どもたちって、これから面白くなる!という時期になると卒園しちゃうのよね。」とこぼしていました。 そして、その年の初めての年長組担当教師たちの職員会議において、『2年保育と3年保育の年長児たちと1年保育の子どもたちとは、園生活の経験の違いとそれなりの発達の違いがあるので、学年のカリキュラムを立てる時に、1年保育については、私なりに考えていきたいので別にしてほしい。これから子どもたちの生活に、エンジンがかかり始めるという時に、卒園を迎えるような空しさを味わうのはごめんです。』と発言して、皆の了解を求めたのです。 他の教師たちも、それに同意しました。1年保育の場合、3,4才児が入園当初に経験する、何もかも初めてという、とまどいや不安定さを充分に体験させる必要があるという結論でした。 私たちは、入園してくる子どもたちが一日もはやく園に慣れること、そして自分の本音と地金を出してくれること、そこから一人ひとりの「その子だけに特有の」生活、その子ならではの生活と育ちが「始まる」と考えてきました。1年保育で入園してくる5才児たちも、同じように一人ひとりが自分の地金を出し切れる園生活のスタートが必要である、という認識において全員の思いが一致したのです。
2.箕田の実践のあらまし
テーマ「ごっこ遊びの実践記録より」
概 要
その年の1年保育の子どもたちは、5月初めには全員が名前を覚えていて、「今日は○○ちゃんがお休みだ」とか、「○○ちゃんは、今どこどこで何々をして遊んでる」とかと、お互いのことがよく分かっている子どもたちでした。 6月の下旬 子どもたちのあいだに、パーマン遊びが大流行。制服の両袖を脱ぎ、マントのようにして両手を広げて走り回っている。(6/20~6/26)
空を飛ぶパーマンにちなんで、空について話し合い、壁面のボード作り「大空」に取り組む。星、月、にじ、雲、飛行機、ロケット、宇宙人、けん牛、おり姫など、自分の好きなものを描いて切り抜き、貼っていく。(6/27~29) 空き箱とラシャ紙で大きめのロケットを作り、輪つなぎの間につるす。 ロケットの歌をみんなで作り、曲をつけて歌い、間奏の時に好きなところをとびまわってくる。隣の年少組の保育室が2つ空いていたので、そこをまわってくる。
(1)ロケット ビュン ビュン ビュン / ビュン ビュン / はやいな ビュン ビュン / ぼくも宇宙へ行きたいな。
(2)ロケット ビュン ビュン ビュン / ビュン ビュン / はやいな ビュン ビュン / もうすぐ着陸 うれしいな / エンジンかいちょう!!
7月上旬 「ロケットにのって」の絵本を読んだ後、「宇宙船あそび」の表現遊びをして皆で月の世界に行く。
(7/1~3) オルガンが入っていた大きなダンボールでロケットを作る。子どもが2人乗れて、4、5人の子どもたちが揺り動かす。他の子たちは画用紙を丸めた望遠鏡でロケットの行方を追っている。しかし遊び始めるとすぐに壊れてしまう。
(7/6) もっと丈夫なロケット作りに取り組む。星の観察に興味を持ち、プラネタリュウムづくりも始まる。4グループで黒のラシャ紙に星を切り抜き、裏に黄色の紙を貼って、保育室の天井に貼り、椅子を並べて観察する。
(7/7) 月の世界についての言葉集めをする。園ではまったくの無表情であったK君が、家で母と一緒に「月の世界探検」の詩を作ってくる。
(7/11~12)
(1)月の世界についたぞ、みんな元気に歩こうよ。よくみて よくみて 歩こうよ 何があるのか さがそうよ
(2)月の世界の探検だ うさぎかそれとも宇宙人 よくみて よくみて 歩こうよ 何があるのか さがそうよ この歌に教師がその日のうちに曲をつけて、皆で歌う。
(7/17) ここで夏休みに入る。
9月上旬 2学期になったが、子どもたちはロケット遊びを忘れていない。すぐに続きに入る。そして月にいるものを歌にしていく。
(9/7~16)
○ 怪獣のうた
おいらはかいじゅうだ。おいらはかいじゅうだ。にんげんさまを食べちゃうぞ。 ○ 宇宙人のうた 僕らは宇宙の王さまだ。怪獣なんかに負けないぞ。さあさあ地球のおきゃくさま。仲良く一緒に遊びましょう。
○ うさぎの歌
さあさあおもちがつけました。おいしいおだんごめしあがれ
9月下旬 劇遊びに発展していく。.皆でストーリーを考える.。自分のなりたいもののお面を作る。T君が劇の最後に仲良く皆で歌って踊るときの歌を作った。
「怪獣さんも みんな仲良くなった。みんなでおどろう。なかよくおどろう。元気におどろう。うさぎさんも かいじゅうさんも 人間も 宇宙人も みんなで みんなで みんなでおどろう」 以後、12月のクリスマス祝会での劇遊びにつながっていく。 このような、子どもが主体となって遊びと生活を生み出していくなかで、一人ひとりの子どもが自分の個性を発揮し、友だちと協力し、自分の内にあるものを自由に伸び伸びと表現したりしながら、自分で自分の育ちをつかみとっていく姿を明らかにしていったのです。
3.評価と反省
箕田の提案は、子どもの社会性の発達に視点をおいたものでした。 仲間との生活を通して、子どもの社会性はどのように育っていくのか、を明らかにしようとしたのです。 箕田はたまたま「パーマン遊び」という、子どもたちがその当時のテレビ番組の影響で流行していた、単純で何の発展性もない繰り返し遊びに着目して、「空」「宇宙」「月探検」と子どもたちの意識を広げていくなかで、子どもたちが夢中になって取り組む集団遊びに発展させていったのです。 遊びのきっかけは子どもたちの生活のなかにありました。 しかし、その遊びは「つまらないもの」でした。放っておけば当然のことですが、やがて消えていくものでした。その「つまらない」「一時的で単純な」遊びを、箕田は1学期から2学期にまたがって、子どもたちが夢中になり熱中して遊び込むことのできる遊びに変えていったのです。 子どもたちは確かな「めあて」をもち、目的意識をもって、自分たちの遊びに必要なさ様々なものを作り、遊びをさらに楽しいものにするために、一人ひとりの特性や個性、能力が発揮されて、集団としての組織をもつ質の高い遊びに発展したのです。 子どもたちが、めあてをもって遊びに取り組む時、そのめあてに迫っていくために必要な話し合いをし、役割や分担を決め、必要な仕事に取り組んでいきます。 提案のまとめのなかで、箕田が語っていたのは、おおよそ次のようなことでした。 子どもにとって「仕事」は「遊び」です。そして「遊び」は子どもの「生活」そのものです。この遊び―仕事―生活という発展と循環のプロセスのなかで、話し合いが猛烈に行われ、めあての再検討とか再修正とかをめぐって「ぶつかりあい」や「対立」が起こり、時にははげしい「けんか」まで起こります。子どもたちは実に真剣に、自分たちの遊びに取り組んでいるのです。自分のことだから、いい加減なことではすまされないのです、と。 集団のなかで、共通の目的意識をもって、子どもたちがそれを達成するために、必要な様々の手立てや手段、方法を考え出し、一人ひとりの持っている能力を出し合っていく、その全てのプロセスのなかに、子どもの成長と発達に役立つ、実に豊かな学習体験が秘められています。 箕田はさらに語っています。子どもたちが、確かな値打ちと内容のある遊びをつくりだしていくために、教師はありとあらゆる創意と工夫を迫られ、骨身をけずり、やせ細る思いを経験していくのです、と。 そのような悪戦苦闘の保育実践のなかから、箕田の実践と提案が生まれたのです. しかし、当時の研究会では、何の反応も評価もなく、完全に無視され、あきれられて、何の質問も反論もありませんでした。10年程早すぎたのでした。その後、日本の幼稚園界にも、徐々に総合活動とか幼児主体の生活とかという問題意識が出てきたのです。
4.箕田実践から学んだこと
(1)子ども主体ということ
幼稚園の生活とは、子どもたちが主人公であり、子どもたちが「生み出していく」ものである、という教育活動における最も基本的な原則を皆で確認したことが、箕田実践から学んだ大きな収穫でした。いわゆる「発生的カリキュラム」への開眼でした。 教師が与えたり、指示したりする生活や活動ではなくて、教師は子どもと共に生活しながら、子どもの興味・関心によりそって、子どもが夢中になって取り組める遊びや活動を、子どものなかから「引き出してくる」のです。 子どもたちのあるがままの生活や遊びのなかから、その時々に子どもたちの発達の姿に、もっとも適した活動が子どもたち自身の願いや要求に根ざした興味・関心に支えられて「発生してくる」のです。その活動や遊びを子どもの発達を支え充実したものにしていくように援助していくのが教師の仕事なのです。 遊びをもっと楽しいものにし、子どもの発達を豊かに促していくような、新しい課題や視点の転換をさりげなく提案したり、その遊びがもっと楽しくなり、さらに大きく多様な課題を持つものに発展していくように、援助していくのです.時には、子どもたちに重い困難な課題の解決を迫っていくこともあります。「あなたにはこれができる筈です。やってごらん」という要求を子どもたちにつきつけるのも、教師にとって不可欠な子どもへの援助です.自分が選び、自分が決めた活動に、自主的・意欲的に取り組んでいる子どもは、当然のことながら、自分のこととして、教師の提案を受け入れ、自分自身の課題として引き受けて、挑戦していきます。 そうした教師と子どもとのやり取りの中に、「響きあう人間関係」が生まれてきます。 教育とは「響育」であり、「共育」でもあります。教師は子どもによって育てられていくのです。心と心とが響きあう関係のなかで、子どもに学び、子どもによって育てられ、子どもと共に生きる教師は、子どもが自分自身の力によって育つのを「待つ」教師であり、「支える」教師であります。
(2)教師の柔軟性と自由について
箕田がこの実践に取り組んでいた最中に、「毎晩、11時12時まで、明日の子どもたちの活動を見通して、ああでもない、こうでもないと、幾つもの指導プランを考えてきたが、毎日のように子どもたちは私の見通しと指導案のすべてを乗り越えていった。私の予想した指導プランは子どもたちのものすごいエネルギーによって、いつもひっくりかえされてしまい、毎日にように子どもたちに乗り越えられてしまった。いっそ、指導案なんか考えないほうがいいのかしら」ともらしたことがある。 そうではなくて、教師の側に確かな見通しと豊かな願いがあり、教師の予想を越えていく子どもたちの要求にたいして、多様な対応が可能であるからこそ、子どもたちは教師の思いと響きあうようにして、自分たちの生活と活動に向かって精一杯の喜びと感動をもって取り組んでいったのだということです。指導計画や教材研究の大事さと、それに固執したりこだわったりしないで、子どもの自由で柔軟な発想や思いに対する教師の柔軟性と自由さが大切なのだといことを皆で確認しあったのです。
(3)教師が変わると子どもが変わる
昭和38年の新学期に、私たちはそれまでのカリキュラムの見直しをおこない、指導案にとらわれない指導、教師が立案した活動計画に固執しない指導を、原則とすることを確認しました。 しかし、そのためには子どもの視点にたち、子どもの願いや要求をどこまで読み取れるか、そして子どもの興味や関心に則して日々の保育を展開していくには、どうすればよいのかを徹底的に話し合うことにしました。 週に一回、時間を決めて遊びの観察記録をとり、一人一人の記録をもとに、検討会をやりました。そこで分かったことは、子どもの遊びを見る目の甘さと浅さでした。見ているつもりでも肝心のところが抜けていたり、その遊びのもつ意味や価値に気づかなかったりということが明らかになったのです。 昭和40年、41年と毎晩夜遅くまで職員会議をやりました。今日の子どもの姿を皆が出し合い、明日の活動への見通しを立てる、という作業でした。時には、園に泊まってしまうこともありました。それは実に厳しい営みでした。 一人ひとりのその日の実践を徹底的に分析し、時には「私ならこうしたい」「なぜその時あなたはそのような対応をしたのか。あなたの子ども観や指導観が問題なのではないか」というような、ぎりぎりの相互批判もしばしば行われる場でした。 その結果は実に驚くべきことでした。 子どもたちが変わってきたのです。子どもたちの目が輝きはじめ、子どもたちの活動がびっくりする程ダイナミックなものになってきたのです。 そういう子どもたちの姿に励まされ、力づけられて、私たちはめばえの保育の変革に取り組んできたのです. 昭和40年から毎年、各学期毎にまとめてきた実践総括の資料は、数万ページに及ぶ膨大なものになりました。それらの資料の一枚一枚に、その時々の教師たちの子どもたちによせた熱い思いと感動、そして汗と涙が込められています。 めばえ幼稚園はこの50年、本当にすばらしい教師たちに恵まれてきました。 いつの日か、その貴重な実践記録を日の当る場所に出したいと願っています。
(4)理論化を求めて
子どもの自主性や主体性と自由を保障する保育が、こんなにも大きな変化を子どもたちにもたらすのは何故なのか、という驚きの思いから、子どもの教育とはいかにあるべきなのか、という問いをもって、保育の理論を求め始めたのです。昭和42年から元白梅女子短大教授久保田浩先生をお招きして、常磐地区私幼協会の研究会が始まり、久保田先生の構造論や保育理念に大いに教えられました。 また、イギリスの自由教育の実践家ニールの著作を始め、ペスタロッチ、フレーベルや日本の幼児教育の先達たち、倉橋惣三、和田 実・梅根 悟その他、さまざまの哲学者、文化人類学者、現象学者らの本を手当たり次第に読んで、人間の教育のあるべき姿を求めたのです。 そのプロセスで出会ったすばらしい本の数々の中から、私たちの保育を組み立てていくために役立ったものを、ほんの僅かですが参考資料としてまとめてきました。その多くは私が白梅女子短期大学の講師時代に、レジメとして用いたものです。 めばえ幼稚園の設立50年という機会に、それらを一冊にまとめておこうと思いたった次第です。 なかには、とても読みにくいものもありますが、そういうところは飛ばしてお読みください。行間をとおして私たちが求めてきたものを、お読み取り頂ければ幸いです。ともに子どもの幸せを願って保育や子育てにかかわっておられる方々に、他山の石として、少しでも参考になれば幸いです。どうぞご批判とご指導のほど、よろしくお願いします。 注 すばらしい保育実践をされた箕田エツ先生は、昭和38年5月から44年12月まで、めばえに勤務され、その後10万人に一人と言われるような奇病にかかられて、召天されました。彼女は敬虔なクリスチャンでした。謹んで姉妹のご冥福をお祈りいたします。