1.「指導なき指導」を実現するための「指導の構造」を考える


[第一の構造]基礎構造「子どもの側に立つ」
指導なき指導というのは、もともと大変な矛盾をはらんでいる考え方であります。 しかし、これまでごく当たり前のように行われてきた、教師を中心とする「上から下への指導」を否定して、教師と子どもとが共に並んでたち、子どもの生活やそのなかでのさまざまな遊びや活動のなかから、カリキュラムを生み出してくる保育実践を実現していくためには、指導者としての教師がどのように、子どもに対して自分自身の立場をとるのかということが、第一に問われることなのです。 教師と子どもとが、共に並んで立つということ、そして子どもの内面の心によりそって、子どもの願いや思い、子どもの要求を、深く読みとっていこうとする心の姿勢をしっかりと持つことが大切なのです。 教師にとって最も大切な条件は、子どもと共に育とうとする自分自身への願いや要求をもつことであります。 子どもに学び、子どもによって育てられようとする姿勢が教師にないかぎり、この試みは無理なのです。 子どもと共に感動を共有し、子どもの喜びや悲しみを共に分かちあえる教師でないと、子どもと響存する場としての保育を生み出していくのは無理なのです。 以上のような考え方から、指導における第一の基礎構造は、「子どもの側に立つ」という、きわめて単純で当たり前の原則であります。うらがえせば、子どもの人格性の尊厳へに対する、畏敬の念を抱きえないもの、自己の内に構築しえない者は、人間の教育に関わってはならないという大原則を、第一に確認しておきたいと思うのです。

[第二の構造]機能構造「指導し、援助する側に立つ」
教師としてどうしても立たなければならないのが、大人としての場・子どもとは別の場・子どもを指導する場に立つことであります。 教師は、さまざまな場面で子どもを指導し、その場に必要な支持を与えたり、場合によっては絶対に妥協を許さない命令や拒絶をしたり、厳しい指示を与えたりすることもあります。 生命の危険や健康上の著しい悪影響のあること、他人に危害を及ぼすこと、などについてはいかなる妥協もあいまいさもなく、教師は大人として子どもに極めて真剣に、最大限の真面目さをもって「しつけ」行動を選ぶのです。そのような時には、教師は正に裁判官であり、検事であります。教師のもつ人間としての価値観をまともに子どもにぶつけていくのです。成熟した大人と未成熟な子どもとの関係がそこにあります。 もかかわらず、教師はもう一つの顔をもつ存在なのです。子どもの仲間として、子どもとともに園生活を生み出し、創造して行くために、子どもの内面への参入と潜入によって、子どもとの同一化を求め、子どもの場に立つという矛盾を抱えながら、人間の教育に挑戦し続けるための機能構造が、「子どもへの援助者」としての第二の構造「指導し、援助する側に立つ」ということなのです。 人格と人格の出会いとしての教育・協働の関係において共に生きる人間同士としての教師と子ども・今を真剣に、そして誠実に生きようとしている人間として迎え入れられる場としての園や学校・愛と受容による人間的同調作用を、共有しながら生きることによって生まれる、生体リズムの同調(表情・見ぶり・手ぶり・話し言葉・ボディランゲージ・ノンボーカルランゲージ)を実現していく教育・子どもが教師に似ていくということや、さらに転移(似る)から転位(性格の定着)にまで高められていく教育実践を追及していくための構造であります。

[第三の構造]超越構造「共に並んで立つ」
・・畏敬の構造 自己を越えるものとの同一化を求める、祈りと求道の思いが、保育する者の内面に通底している畏敬の構造であります。時間の重構造(現在・未来・過去の同一化)の中で、大いなるものに注がれる畏敬のまなざしが、同時に教師が子どもを見つめる目でもあるのです。 教師は子どもと「向き合う」のではなく、大いなるもの、永遠なるもの、超越するものに向かって、子とせもと「共に並んで立つ」姿勢を失ってはならないのです。 この第三の構造が、戦後のわが国における教育に欠けていたために、現在のような混乱と崩壊の現象を招いたのではないでしょうか。

2.指導なき指導の具体的展開について


(1)指導する者(教師)と指導される者(子ども)との同一化の関係 教師の全存在・・人間としての全て・・生きて在る・・存在し生活する営みの、全てが指導そのものであります。「在りて在る私」「私は私である私」としての全存在を賭ける営み、互いに全存在を賭けあう営み、人間として共に生き共に存在するもの同志として、教師と子どもが一つに結ばれた共同体として生きる関係、主客同一化の関係が指導の基盤であります。子どもの喜びが教師の喜びであり、子どもの悲しみが教師の悲しみであり、共に生きることを感動をこめて分け合い、謳いあげていく関係であります。

(2)「見る」と「観る」の統一と同一化 自分の視野の外側へ、拡散していく子どもを捉えている意識が一方にあり、他方には自分の視野の内側にいる子どもたちを、同時に捉えていく意識をもって、教師はつねに鋭いアンテナと感覚を働かせながら、子どもを見守っていいる存在であります。教師の目は単に対象である子どもを「見る」ことから離れて、子どもの全体・全身全霊を、分析的に深く、鋭く「観る」目に昇華していくのです。いろいろな方向に分散していく子どもたちを、自分の意識のなかへ集中させていくという、同時拡散的で、かつ同時集約的な意識の働きが、指導という営みを支えています。いわゆる、背中に目をもつ教師であることが要求されるのです。 しかもその際、子どもを批判的な評価の目や品定めの目で見てはならないのです。そのような冷たい視線を、子どもは敏感に察知して、教師との同一化の世界から身を引いてしまうのです。一方的な「やらせ」の指導が、子どもを無気力にしたり非人間化していく原因はこの辺にもあるのです。 自分が見ているものを肌で感じる力、というのは手で触らなくても、体全体で感じ取る力のことであり、主観と客観を統一ないし合一させる力のことであります。見ている自分と相手の中に参入している自分との同一化であり、見ている者と見られている者との同一化であります。 そのような営みにかかわる教師に求められている力とは、「間」(ま)の感覚としての指導や援助についてのセンスとタイミングの感覚であり、「心を間におく」乃至「間にとどめる」というような、余裕やゆとりの感覚であります。 子どもたちが示す、あらゆる変化に対応していくことのできる、豊かな感性や感覚の構えを作り上げ、磨き上げていく努力が要求される所以です。  言葉を媒介にしない直観的意識に自分を委ねながら、具体的・身体的な日常の保育活動での、子どもとの出会いのなかに、自分の全てを投入し、没入していく営みの中で、教師は自分のセンスとタイミング感覚を体得ないし会得していくのです。別の言い方をすれば、日頃の意識状態の中で培った能力や技術を、無意識の場で使っていく営みが、日々の保育実践であり、子どもの教育と言う営みは、長さや量として測られる時間、または回路づけられている継続的時間とか、日常的・合理的・言語的思考を支える時間、さらには知的理解や技術の世界等々を、越えることによって始まる、実に深い全人間的な「心をつくし、思いをつくし、力をつくして」取り組まれる営みなのです。 子どもの教育とは、熱中し、没入し、夢中になり、無我・無心となる世界において、炸裂し割れていくような感動の時間を体験する世界での営みなのであり、冷たい、非人間的な条件づけや制約、禁止、限定などという否定的な条件を伴わない、豊かな喜びの時間、さらに無意識的直感の世界に自分を解放していく時間を体験し、自分を越え、時間を越え、空間を越える超越体験を与えられる営みなのです。そのような営みを支えるのが、上に述べた三つの構造なのです。

(3)超えるということ 人間は、見える・聞こえる・分かる・触る・知っているという、理性の世界、現象の世界のなかで毎日を生きています。しかし、それだけが人間の生きられる世界ではありません。 見える世界の彼方、または背後に、そしてもっと深い実存の底にある世界も、人間のものです。そこに迫っていく態度を獲得していくことも、教育における重要な課題であります。自己の存在の底を破って、自分を出ていくこと、自分を離れること、そして自我(エゴ)から自己(セルフ)への道を辿ることも、教育における大切な課題です。目には見えず、隠されているがあるもの、見えている世界から見えないけれどもたしかにある世界への飛翔と飛躍を試みるという、心の自由というか、自分にも何ものにもとらわれない、伸びやかな心を獲得していくという課題です。 簡単に言えば、幼稚園というところは、子どもが日々の遊びへの挑戦の中で、自分を超える体験を、存分に経験している場所なのです。子どもの遊びとは、自分が自分をよびだす営みです。朝、幼稚園に登園してきた子どもと、午後降園していく子どもとは、同じ子どもではないのです。子どもは日々に古い自分から新しい自分に変容し、発達し続けているのです。古い自分を捨てて、新しい自分を「呼び出し」て、掴み取っているのです。そのような自由で豊かな遊び体験を通して、子どもは固定化による自己解体や自己崩壊の危機を、乗り越えていく力を獲得していくのです。

(4)二つの自由 自分を十分に発揮する、自分を存分に出し切ることによって、子どもは自分を掴むというか、本来の自分に達する体験をしているのです。そこには、二つの方向があります。一つは自分をさらけ出すこと、自分を危機にさらすことであります。子どもは自分の選んだ遊びのなかで、問題としての自己を発見していきます。自分の出来ることと出来ないことと、得意なことと不得意なこととに出会う中で、自分の課題を発見していくのです。夢中になって自分の課題に挑戦する体験とは、自己突破と自己否定の体験であり、自己放棄と自己犠牲の自由への挑戦であります。即ち自己から出ていく自由を、子どもは獲得していくのです。 さらに、子どもは、そうした体験を通して、自分を絶対化しない自由、仮説性にとどまること、自己を相対化していく力を獲得していきます。それは自己にとどまる傾向からの自由であり、自己変革への自由であります。自己の内から自分の未来を創造していく力を獲得していくのです。自分をしばりつけたり、自分をある一つのことに、いつまでも固定しておかない自由と、自分の視点を固定しなで、より広くより高くより深い視点で見る自由、そして自分の人生を自分の責任において引き受けていく方向への自由の獲得であります。自己放棄と自己獲得という二つの自由の獲得であります。

(5)脱中心化への教育という課題 子どもは親や教師との確かな信頼関係に生きることによって、主客同一化の世界に開かれていきます。 そして自分が生きているこの世界と人間に対する、信頼と愛に裏付けられて、自分独自の世界を手に入れていくのです。それは子どもらしい、そして子どもにふさわしい、自分以外の何ものによっても支配されない、「私は私である私だ」という、生活の主人公としての自分の世界であり、同時にその世界の中心である自分自身の「今」に、まったくこだわらない自分、常に未来と明日に向かって、成長し前進し自分を後ろに脱ぎ捨てていく、自由な自分の世界をもつ子どもであります。 いわゆる「脱中心化への教育」という課題が、自由の子どものなかで達成されていくのです。見たこと、聞いたこと、知ったこと等々、子どもはいろいろな体験をしていくなかで、それらの「事柄」には、人間としての「わきまえ」として、言っていいことと悪いこと、知らせていいことと悪いことと、様々なケースが存在することを学んでいきます。 そして、「さりげなく」ふるまうこと、「何となく」とか「それとなく」知らせること、「そっとして」「見ぬふり・知らぬふり」をする、とかという人間の心の微妙な機微についての了解や知恵を獲得していくのです。人の痛みや傷に触れない「何を言わないか」の言語学の世界、意味や用件を伝えるだけが言葉ではないということを知るのです。話題の中心にとらわれない心、人の痛みや悲しみに踏み込まないという「脱中心化」の態度を身につけるのです。目は口程にものを言う世界、しぐさを通して心を伝える世界への旅だちが始まるのです。

3.指導の在り方について


(1)非人間的指導の事例

  • 命令的指示的指導
    子どもは受身的・依存的になり、合図や条件付けを待つようになり、さらに自分の生活の課題を責任的に引き受けることを避ける傾向や、困難な課題に立ち向かう積極的な意欲を失っていくことになります。無関心型・無気力型・無意欲型の子ともや、反対に攻撃型・ツッパリ・だだこね・ぐじぐじ・うじうじの子どもを作り出す指導です。わざと子どもの痛い所を突っつく指導・子どもの神経を逆なでするような指導・さらに子どもに追い撃ちをかける指導・重箱の隅をつつくようなしつこく細かすぎる指導などが一般的であり、信念の固定化と一方向しかもたない信念というか、ばかの一つ覚えとか、専門ばか的指導といわれるものです。
  • 身をひく指導・はじご外しの指導
    子どもが困難な課題に向かっている時に、適切な援助を与えないで、ほおって置いたり、見過ごしたりしている状況が続くと、子どもは物事に対して投げやりなったり、不安定状態に陥ったり、受動的ないし攻撃的な性格に導かれていくみとになります。このような指導はかんしゃく・わがまま・不安定・ツッパリ型を生み出す指導であり、教師と子どもとの間の感情関係の欠落を招き、情緒的・美的・創造的な諸体験の欠落を招く指導であります。
  • 子どもを手なずける指導・母親感覚の指導
    子どもを教師のコントロールの下におこうとする傾向をもつ指導であり、いつも子どもを依存状態の中にとどまらせておく指導で、子どもの退行現象を招く指導であります。そして教師の視野の外にいる子どもは無視され、子どもの生活が広がらない指導です。子どもをバラバラに孤立させてしまい、集団思考や共通体験ができない、共通意志とか共通目的等を形成する体験の場を作れない指導でもあります。教師も子どもと共に主体性を確立していくことのつらさや痛みを体験する必要があるのですが、自己に出会うとか、自己と対決する、或いは自己に到達し、自己を突破する、孤独な痛みの体験を,子どもと共に分けあう余裕をもたない指導であります。母親感覚で子どもを指導する教師は、子どもの退行現象に引きずられ、泥沼にはまったような状況に落ち込むことになるのです。
  • 子どもに拒否され不信感を抱かれる指導
    イメージの貧困な教師、子どもとの約束を忘れる教師、その場限りの対応でお茶をにごす教師、でまかせとおもねり、或いは脅かしによる指導などの非共感的指導は、子どもに心理的に拒否され、不信感を抱かれてしまいます。子どもの揺れ動く心やひらめきとかときめきに対して響き合うこともなく、子どもの驚きや感動に鈍感な教師による指導というのは、子どもに捨てられ拒否されることになります。のろま型、ぼんやり型の生気・活気・やる気・見る気・話す気・聞く気・動く気等々生き生きと生きている感覚の乏しいタイプの人は教師になってはいけないのです。また緊張感欠如型の人も、反対に恫喝と制圧型の人も子どもの指導には向いていません。
  • 手抜き・心抜き指導、間・抜けの指導
    手抜き、足抜き、心抜き、特に感性抜きの指導はいただけません。センスとタイミング感覚を持たない指導とは、「間」抜き指導であり、むしろ「間ぬけ指導」であって、人間的な感性や感覚の抜け落ちた、子ども殺しの人間性剥奪型の指導であります。保育室・園庭の掃除から始まって、教師の日頃の態度から服装、髪型、口調、持ち物等々のすべてが子どもの人間としての発達に、重大な感化を与える条件であり、それらのどの一つを欠いても、指導の欠落をもたらすことを銘記しておくことが必要なのです。間抜き指導とは時と場所に対応しない指導です。肝心なときに間に合わない、そこにいても応答しない、反応できないということは、随時随所・適時適所の指導の欠落を意味します。足抜き指導とは時間の見計らいの欠落した指導であります。ロッカーやピアノの向こう側に落ちたものに心が向かない、物かげや視野の外に出たものに心が引かれない、乃至はそういうことが、心に引っ掛からないという無頓着・無感覚な人は、子どもの指導に向かないのです。小さなこと、ささいなこと、ごみのようなこと、目立たないことを自分の心に引っ掛けておくことのできる人、見逃さない人、気づく人、気にかける人、それでいて神経質でない人、おおらかな人が、子どものために求められているのです。
  • 子どもと向き合う指導・機械的指導
    指導の対象としてしか子どもを見ないという、子どもを原材料化し、素材化、道具化、手段化、計測化し、さらに物質化してしまうような無味乾燥で味気ない一方的な指導を機械的指導と呼びます。はじめに教科ありきで、子どもは二の次という考え方です。子どもを客体とし、物質として見る指導であり、因果(原因と結果の論理)、できる・作る・知る等の能力や技術・技能の世界でのみ子どもと向き合っている指導であります。高みに立って子どもと向き合っている教師に多い傾向です。
  • 偏った指導・主義による指導
    みんな主義の指導とは、同じことを同じ時間に全ての子どもを対象に指導する方法で、みんなにまんべんなく同じ経験を保障するという、とても効率の良い指導法です。しかし一方では一人ひとりの要求や願いは無視され、圧殺される指導法です。 本時中心主義という指導もあります。その時間に教師があらかじめ計画したことを、何が何でも、どんなことがあろうとも、計画どおりに教えてしまう、という指導法です。 ある時、ある園の園長がこぼしていた言葉を思い出します。ある朝、登園したらその日は珍しく大雪の日でした。ところが先生たちも子どもたちも誰一人園庭に出てこなかった、というのです。みな、その日に計画していた活動を、計画どおりにやっていた、のでした。たまに雪が降った日くらい、その日の予定を変更して、みんなで雪合戦や雪だるまづくりに夢中になったら、どれ程楽しいか、結局園長と事務職員の二人で雪だるまを作ったということでした。 よくベテランといわれる教師は、実に上手に子どもたちを自分の指導計画に乗せていき、時間内にきちんと日案どおりの内容をこなしてしまう力を持っている人と言われます。指導案通りに子どもを引き回すのが力のある教師として評価されるのです。まるで調教師の世界ではないでしょうか。また、一人ひとりへの対応主義の指導法とは、一人の子どもへの指導を大切にするあまり、目の前の子どもに集中することに固執して、他の子を無視し、見殺しにする危険をもつ指導です。さらに、独り善がりの思い込みや固定した立場(イデオロギー)に立ったり、または逃げ込んで行われる指導もありますが、それらの指導法に共通のものは、何れも子どもの立場に立つというよりは、指導する教師が優先するということです。
  • マニュアル型とアニマル型 -技術指向型の指導-
    保育方法についての講習会は昔から大盛況と言われます。ハウツーについてのマニュアルによる指導というのは、いずれも「もの」化し、機械化した人方法に頼ろうとする人間の危機状況を示す指導というべきでしょう。技術や道具、或いは手段に頼り、測定や計量化という統計の対象として、子どもを捉えていく方向からは、本当の人間の教育は見えてこないのです。伝統に固執したり、教科書を金科玉条のように大事にする指導は、結局、定食型・飼育型・教師中心型の指導を生み出していくのです。

(2)人間的指導の事例

  • 応答的指導・人格的対応型指導 子どもに求められるときだけ応答する指導
    子どもが行き詰まって途方に暮れた時、人間的に応答する指導のあり方を追求したいと思います。それは、世界と人間を信頼する感情(基本的信頼感・基本的安定感)を育てる指導でもあります。愛着安定型・積極的・意欲的・能動的な子どもが育つ条件としての、応答的な指導を大切にしたい。応答的指導が欠落すると、子どもを動物的状態ないし無気力状態に追い込むという恐るべき転落が起こる危険があります。
  • 子どもを受容する・子ども主体の指導
    子どもをあるがままに、全人間的に受容し、教師と子どもとの相互信頼を基盤として、開かれた関係における自由な対話の世界を生み出し、共感、響存、共生の世界を、子どもと共に創造していく教師の姿勢が貫かれている指導を実現していくことが、私たちの課題であります。はじめに子どもありきという思想に立つ指導です。
  • 自己信頼感・自己価値観・安定感・責任感をもつ子どもが育つ指導
    子どもの自由を尊重し、自主的・主体的な生活を大切にする指導を積み上げていくことによって、子どもは自分に安定し、自分自身の存在に確かな価値観を抱くように育っていきます。いわゆる等身大の生き方のできる子どもに育つのです。当然のことながら、子どもは子どもなりに自分のことに責任をもつような生活者として育っていくのです。
  • 子どもの自立を助ける指導
    教師と子どもとの心理的距離と身体的距離の取り方は、園生活の発展と共に微妙に変化していくものです。教師はさりげない適度の距離を保ちながら、子どもの安定度に適応して、指導の間合いをとるのです。 教師と子どもの心と心のつながりが深まるにつれて、生物的つながりから人間的つながりへと昇華させていき、子どもの独り立ちを助け、自立を支えていく指導を大切にするのです。 教師と子どもの関係とは、手で聴き、目で触り、耳で見、体で読み取り、皮膚で感じる世界での応答の関係であり、人間としての繊細で柔軟な感性や豊かな情感が最も大切にされる、霊妙な人間関係なのです。言葉のいらない表現の世界がそこにあります。心を残すとか、微妙な「間(ま)の感覚」とかが、教師と子どもの間に、日常的に行き交う世界であり、同時に人間としての全体感覚がいつも問われている世界、それが保育の世界です。子どもがひそかに自立をしていくプロセスのなかで、教師は子どもとの距離を生み出していく感覚を働かせ、教師と子どもの間にさりげない空間を作っていきます。そうした感覚のやりとりのなかで、子どもの感性が発達していくのです。子どもが自立することの根底にあるもの、それは自己教育力と自己内形成力であり、そうした子どものもつ力への信頼が根底にあるのです。技術主義・物質主義の指導は通用しないのです。幼稚園は動物園や工場ではないのです。教師は出前もちやご用聞きではなく、子どもたちとの隔たりを適度に保ちながら、必要なときに必要なだけ、子どもを援助できる距離に存在することに心を砕いているのです。
  • 子どもとの響存を求める指導
    子どもと教師とはそれぞれ全く別の存在であり、別の時間の中に生き、別の時間体験の中にいるのですが、子どもとの響存と共存を求める教師は、自分の時間を子どもの時間にしていくのです。子どもの世界と教師の世界とを同一化していく営みの中に、教育における「指導なき指導」の世界が開かれてくるのです。そのために、日頃身につけている自然的態度(自分を根拠づけ、自分を形成してきた結果、自分の中に厳として存在するものとしての)を、「根源的に問い直し続けていく」こと、自分への問題意識をもちつづけること、そして絶えず自己変革の道を歩き続けることが、教育に携わる者に求められる基本的条件となるのです。教師が主観主義から自由になることによって、自分勝手な思い込みの世界、自分のなかに閉ざされた世界、固定化した自己完結型世界から自由になることができるのです。 それは同時に、倫理感覚としての生命への畏敬の念の欠如した世界から自由になり、固定化・絶対化からの自由を獲得していくことであり、教育が成立していく前提がそこにあるのです。
  • 終末からの教育・時間への教育
    死に向かい、死を生きている者同志として、時に死の事実に出会って、死というものを自覚させられたり、気づかされたりする体験を通して、教師も子どもも生命の有限であることを学んでいきます。生きるとは、人生の最も大切な死の瞬間のための準備であると言えるでしょう。一期一会という言葉の通り、人間も動物も明日の命の保障は無いのです。出会いと永遠の別れとは、一つであり、生命と時間の有限性に気づかせていく指導も、人間の教育に欠かせないことであります。
  • 子どもの今を見つめる
    子どもの「今」は、両親・祖父母・祖先・教師・地域・時代・民族の文化・歴史のすべてと共に現前している今であります。教師はそのような膨大なルーツを背負う子どもと生活するのです。目の前の子どもを超えたところからの、見えない様々なメッセージが、子どもの今を支え、構成しているのです。それらの全てを背負っている子どもと共に在ること、そしてそれら全てを子どもと共に担って、子どもと共に生きることを願うのが、教育を志すものに与えられている人類史的な課題なのです。子どもを指導するとは、本当に畏れに満ちた営みであり、同時に人間の教育を担当する者に与えられている、光栄にみちた、神の恩寵と恵み、祝福にみちた営みであります。
  • 拡散的指導
    教育における教師と子どもとの関係は、つねに弁証法的指導を仲立ちとしています。子どもの内面により沿う指導とは、「ここ」と「あそこ」、「この事」と「あの事」、「目の前」と「視野の外」、「心をそこに」と「心をあそこに」、心を「残す」と心を「込める」(残心と入心)等の二つの方向に向かうものが、拡散しながら同時に一つに集約されるという形で指導が行われるのです。私たちは因果論的・演繹的指導を否定します。こうすればこうなるという、原因と結果を機械的・合理的な因果関係によって予測して、人間の行為や活動を決定するような、非人間的指導にしばられてはならないのです。
  • 脱中心化の指導(自分にとらわれない指導)
    先に述べたような、全体を中心からでなく、むしろ周辺から捉えようとする指導法を私たちは大切にします。例えば、肉体や身体という理性(中心)から最も遠く離れたところ、そして最も日常的であり同時に、最も根源的なところから、子どもの発達を捉えていくような指導方法を確立していきたいのです。
  • 人間的感情・価値観・人間化への要求をもつ指導
    その場限りのごまかし的・場当たり的な指導は、子どもに否定され拒否と不信と軽蔑を受け、相手にされなくなるものです。よりよく生きたいという、人間的な願いから生まれる教育要求や、確かな価値観をもたない教師の指導は、盲目的指導(盲人が盲人の手を引く)であり、子どもの中に人間が育たないことになります。 人間として生まれ、存在することに誇りと喜びをもち、人間として生き活動することの意味や価値を求めて、真実なもの、善なるもの、美しいもの、聖なるものへの、憧憬を抱いて、絶えず前進し育ちつづける人間化への要求を、教師は子どもに提案し続けるのです。
  • 未来へのまなざしをもつ指導
    教育とは、生を賛美し、人間であることのすばらしさを、教師と子ども、そして親たちと共に歌い上げていく営みであります。歌を忘れたカナリヤであってはならないのです。また上を仰ぐことを忘れてもなりません。上に注ぐまなざしと未来へのまなざし、そして自分を超えるものへの思いを忘れると、人間は自己完結型や目の前の現れては消えていく、つかの間の現象だけにとらわれる刹那的生き方に落ちていくことになります。人間の無限の可能性に対する好奇心や関心、探求心を失い、うつむいて下を見るだけの姿勢と目の前の現象だけにとらわれる生き方に終始することになるのです。生きる喜びを精一杯に謳いあげていく、生のダイナミズムを失った、チマチマ・セコセコ・イジイジ・ジメジメ・ウジウジ・ガサガサした指導は、必ず子どもに見捨てられることになります。人間の尊厳に対する深い尊敬の思いと、確かな信頼に裏づけられた、確固とした理念や哲学をもつ指導に対して、それらのことに無頓着で、無原則な指導が行われる時、いわゆるプリンシプル(原則)のない指導とか、アイデンティティ(主体性・一貫性)のない指導が生まれることになります。しかしそのような指導は、必ず子どもに否定されるものです。自由とはきびしく厳粛なものなのです。

4.人間的感覚を育てるための具体的問題提起


(1)現代生理学における感覚の捉え方

●人間の基本的感覚としての五感(視覚・聴覚・嗅覚・触覚・味覚)の研究から熱感覚とかさらに皮膚感覚・筋肉感覚・速度感覚・姿勢感覚・身体感覚・全身感覚・空間感覚などを研究課題として文化人類学や心理学、現象学など多くの学問分野との連携による学際的な研究が進められています。  教育の現場においても、子どもの発達についてより広い視野をもって、見つめていく必要があると思います。 特に、第六感とか直感・直観・予感・予覚・予知・内感・感知・暗黙知・前理解・共通感覚(諸感覚を統合する根源的感覚)などについての、哲学的、人間学的視点からの研究に深く学んでいく姿勢が大切であると考えます。

●教育の分野において、生活感覚--居住感覚・美的感覚(色彩・リズム感・配置感覚)等についの理解や場の感覚・相対感覚・連帯感覚・受容感覚・脱中心感覚などといった課題についての理解を深める必要があるのではないでしょうか。

●指導の問題を考える場合、教育の現場における人間的・人格的生活体制の必要性、即ち開かれた生活体制づくりの必要性についての理解が必要であり、ややもすれば教師の陥りやすい、自己の絶対化、固定化と形式化と閉鎖性、さらに自己完結性への傾向を突破していく意識づくりの必要性を強調したい。

(2)教師と子どもの共通課題---気づき(Awareness)について 子どもは教師に「気づかれる」ことから出発して、自分に気づく、自分の力や感覚に気づくことに導かれていきます。子どもは生活の中で、自分で考える、自分が動く、或いは動かすとか、つくる、感じる自分に気づき、自分の世界に気づいていくのです。自分の中の「有」と「無」に気づいたり、自分を超えるもの、自分の外なるものへの気づき、そしてある時、自分の限界に気づいたり、挫折体験を味わったりするのです。そのような環境のなかで、自と他の存在への気づきをまなざしを獲得していくのです。自分というものの存在感を獲得することによって、自分を乗り越えるとか、自己変革の力を獲得していくのです。現代の人間が置かれている危機とは、自己解体や自己喪失現象といわれるものであり、脱存在感というか脱力感とか倦怠感、自己からの離れすぎ現象、さらにはモラトリアム(猶予)感覚などでありますが、そうした危機からの脱出という課題は教師と子どもの共通のものであります。

(3)反対感覚(気づかれるから気づくへ)--もう一つの気づき 全ての人間行動には、能動と受動の二面性があり、一つの行動はその反対の行動によって支えられ、平衡を保つという原則があります。一つの行動感覚は、同時に反対感覚をも伴っており、正と反との間の無限に多様で、微妙な様々な角度・強度・斜度・色合いの変化を含んだ、多構造的な感覚を引き起こしながら獲得されていくものであると言われます。 例:できる・できない/見る・見られる/壊す・壊される/投げる・投げられる/叩く・叩かれる/触る・触られる/気づく・気づかれる/聞く・話す/喜ぶ・喜ばれる/愛する・愛される 等々  子どもは愛される体験が基礎となって、愛することができるようになります。 教師や親に愛され、気づかれ、配慮される体験が無ければ、子どもは同じように愛したり、気づいたり、配慮することの出来ない人間に育つことになるのです。

(4)体験の言語化と感覚能力の育ち 単なる言葉によるよりも、具体的な体験を通して人間は多くのことを学んでいく存在でありますが、一方で、体験や行動だけで終わってしまっては、不十分な場合も沢山あります。そこで、体験を言語化することによって、意識のなかに定着していくように援助する営みが教師に求められるのです。体験を通して感じたこと、気がついたこと、発見したことや学んだこと等を、言葉によって整理し、確認しながら、感覚能力や 感じとる力、行動の意味や価値を分析したり評価する力等を、日常の様々な生活体験のなかで、育てていくことが大切なのです。

(5)結果や因果律を予測する能力 人間は、行動の結果についての予側・予想・予期・予感・期待・読む等の能力をもつことによって、人間化のプロセスを歩み、自分の行動についてのより豊かな自由を獲得していくのです。そのような予測能力が論理や倫理の基礎能力なのです。その場の関係や・状況を読みとる能力を育てること、その場に相応しい態度を選ぶことが出来ること等の指導が、日常的にさりげない小さな出来事のなかで、丹念に行われることが大切なのです。  チンパンジーが、床や道路に自分の食べたバナナの皮を平気で捨てるのは、誰かがそれを踏んで転ぶだろう、という自分の行動の結果についての予測能力を欠いているからです。  

(6)保護感覚・受容感覚の発達について 保護されるから保護するへ、気づかれるから気づくへ、守られるから守るへ、愛されるから愛するへ、支えられるから支えるへ等々の、保護する感覚や受容する感覚というのは、自分が受容される感覚が基盤となって育つものであることをみう一度確認しておきたいと思います。例:年少児に対して様々な世話行動を展開する五歳児の姿等

(7)危機体験や痛みの感覚によって育つもの 子どもは母子関係の中で、既に危機意識や痛みの感覚の芽生えを、離乳体験や入園による母子分離体験等などを通して体験しています。  成長に伴って、さらに流血、恐怖、孤独などの感覚も体験することになります。危険や危機、挫折に対する予測・予感・予期の感覚、さらにそれらを克服していく耐性や備えの生活体制が確立されていくのも幼児期であります。  庭・道路・床などに落ちている危険物(ガラス片・釘・尖った物・水たまりなど)、汚いもの(ごみ・くず・ほこり・食べかす・動物の死骸や糞など)、さらに水漏れ、垂れ流し、引き摺り等への気づきの感覚も大切に育てていく必要があります。子どもは体験を通して様々な力を獲得していきますが、そのなかで快と不快、或いは苦痛の感覚(特に他人の心の苦痛に対する思いやり)の発等は、もっぱら自分自身の痛みの体験を土台にするものなのです。

(8)物や場の体験を通して生活感覚を育てる  物の配置感覚、バランス感覚、色彩感覚、整理感覚、清潔感等の発達、いわば生活感覚の発達の道筋を明らかにしていくことが大切です。  場の感覚とは、個人と公共の場の違い、座る場、作る場、食べる場、動く場、遊ぶ場、通過する場、入口の場、呼吸する空気の流通する場、家具・教材・教具を置く場等々の感覚は、日常の生活を通して、親や教師の配慮やセンスのなかで育ちます。 高度の精神感覚や反射感覚の基礎づくりの時期が幼児の時代です。例:心地よさ・落ち着きの感覚・・座布団・敷布団・掛け布団・クッション等に座る・寝る・寄りかかる等の、自分の体の姿勢を区別する感覚やそれらを使い分ける感覚能力を育てていくのです。畳文化の感覚・畳の感触・足裏の感覚等・・繊細で鋭敏な文化的精神的感覚の基盤づくりが幼児期に行われるのです。人間的・精神的・人格的生活体制への正常な感覚は、幼児期に養われます。子どもは様々な経験を自分の内部に、精神化することによって溜め込んでいくのです。食事の精神感覚とか、環境についての感覚等の育ちは、例えば「餌やりと食事」の違いを通して子どものものになっていきます。椅子にきちんと座って食べる、屋外でたべる、テーブルに花を飾って食べる、一人で・皆で・部屋をきれいにして、等々のちいさな生活習慣のもつ意味を大切にしたい。例:釘を打つ、水を撒く、バケツを置く、ほうき・塵取りを使う、置く、机や椅子を配置する、机を拭く等々山のようにある日常の生活行動のなかで、例えばドアの位置と他の道具や教具類との配置感覚や、ガラクタや素材を置く、整理する、片付ける等々の諸活動を通してのバランス感覚とか特に「住感覚」の育ち。 釘の長さ・太さ・強さと素材の長さ・厚さ・巾との関係感覚、ノコギリ・カマ・カンナ・シャベル等の道具の使い方、重いものを運ぶ感覚等々の育ちを大切にする。

(9)住む感覚と脅威の感覚 家に住むことや家族と共に生活することを通して、子どもは「安心と落ち着き」安らぎと平安に行き着くことを学びます。そこに「とどまる」という安定した空間の中に、自分が存在するだけではなく、子どもは自分の生活空間をもつこと、そしてしっかりした生活の内容を獲得することによって、自分の存在を掴んでいくのです。居住空間に暖かい人間味を与えることが必要です。居住空間の人間化という課題は、家庭と幼稚園と両者にとっての大切な課題であります。子どもにとって人間的な体験の起こる場所が家庭であり、人間性に向かって開かれている場所が家庭でありまた幼稚園であります。子どもはそこで人間らしく「住むこと」を学ぶのです。心地よさ・快適さ・気楽さ・親密さ・同一化・深い相互関係と暖かい相互応答的な家族の条件が、満たされていることが大切です。そして子どもの生活要求に対応する適当な広さや時に狭さをもち、慈しみの感覚、さりげない整頓、ささいな配慮、よそよそしくない感じの日常性と、そこに住むみんなで生活を作り上げようとする共通の意志と心を共有する感覚が大切なのです。 脅威の感覚とは、美的感覚や装飾性のない、それに色彩感覚や配置感覚さらに定住感覚が欠如した、味気ない砂漠のような、無味乾燥で乱雑な生活空間において子どもがのなかに生まれる感覚です。不潔で、時に異臭の漂うような居住空間、住む感覚の未成熟と無感覚さのなかに子どもが置かれるときに、人間らしく生きるということが、脅威にさらされていくのです。<サン・テクジュベリ著『城塞』より>  ”いかなるわが家も脅かされている、所持するだけで創造しようとせず、怠惰な所持において自己の生の目標を認める人は、家に住むことはできない。”  わが家とかわが保育室というのは、きめ細やかな絶えざる努力と配慮のうちに、到達すべきものであります。絶えず努力して新しく実現し、創造していくべきもの、それが家であり保育室なのです。保育室という限られた狭い空間の壁を越えて、無限に向かい、無限を見る場としての、「住む感覚」が、教師としてクラスづくりに求められる基本的感覚の一つであります。

(10)開放と解放、そして適応について 子どもを解放するとは、その子の脱自己に向かっての解放であり、自分の生の全ての課題を自分のものとして、責任的に自分で引き受けていくことのできる、自己の変容と自己変革に向かって、子どもを解放していくことであります。子どもが自律と自立に向かっていくプロセスは、古い自分から新しい自分への適応のプロセスであり、自分自身の主体性を獲得していくために、新しい自分への適応に向かって、古い自分を解放していく営みであります。人間は自己にとどまろうとする傾向を、自分で断ち切って常に新しい自己を掴みとって行くという姿勢を失ってはならないのです。自己の内側に閉じこもり、自己を外に対して閉鎖する生き方は、退行的、自己完結的、成熟中止的、自己喪失的な生き方であり、現代人に見られる幼稚化現象、または自己の家畜化傾向等と言われます。そうした傾向に対する揺さぶりと呼び出しとしての自己解放と主体性への適応の教育と指導を大切にしたいのです。

(11)存在(BEING)ないし生きるとは 人間とは、BECOMING(生成しつつある)存在なのです。 人間とは、在り続けること、存続していくものであると同時に、絶えず変化し、成長し続ける存在であります。そして生きている「今」において、進行形(being)として「生き続ける」営みのなかで、存在の意味と価値を掴み取っていくのが人間であります。生きている今というのは、人間を超越した無限と人間を押さえ込んでいる有限とが出会うところであり、永遠なる時間と有限な時間とが今、この瞬間において、一つになるところでもあります。この永遠と時間との同一化において、人間は生きる営みを続けているのです。それが「生きる」といことです。人間は、今のこの瞬間を充実して生きることによって、こことあそこ、またはアレとコレ、そして変化と不動、静と動等の流動的な場所と時間を、自由自在に生き、融通無碍に活用して生きることができるのです。それが人間に与えられている自由であります。

(12)人間的指導と非人間的指導の対比 [人間的指導の特質]

 ●人間的な指導の特質は、第一に人の心の暖かさが通じ合う指導ということであります。教師と子どもとが同じ思いと一つの心を共有して生活すること、同情と受容の精神をもって、励まし、慰め、力づけながら、安定したよどみない生活の流れとリズムを生み出していく指導であります。教師と子どもとの同一化の世界が創造され、共同と共感と響存の関係が築かれていく指導であります。  

●総合的・立体的・構造的指導とでも言いましょうか、失敗を恐れず何でもやってみること、その子なりの、その子にしかない、その子だけの発達を支えていく指導であり、適時適所・随時随所に子どもへの信頼を根底として、全人間な発達を総合的、立体的、構造的に支えていく指導であります。

●自由性と柔軟性をもつ指導。子どもの自己選択と自己決定を徹底的に尊重し、子どもの自主的・自立的活動を主軸としながら、子どもと共に、自由と柔軟性をもった指導に徹することが大切なのです。

●人間的指導の特徴は躍動的な指導であり、子どもが自己課題に向かって躍動的に挑戦していくのを、援助する指導であります。

●人間的指導とは、開放性と相互性を大切にする指導です。教師と子どもは応答的な関係にあって、常に晴れやかな気分と伸び伸びとした雰囲気のなかで、生き生きと前向きに、しかも能動的積極的に課題に取り組んでいく指導です。[非人間的指導の特質] ●非人間的指導とは、第一に機械的、無機質的な冷たさを持つ指導です。例えば子どもを見る教師の目が評価の目や品定めの目であったり、その態度や雰囲気が収容所における囚人を監視するような、上から見下ろしているようなものであります。動物飼育的な態度や物を管理するようなやり方は、人間の教育にはふさわしくないのです。

●さらに形式的な指導という特徴があります。出来るか出来ないかとか、まだ無理だからやらせないとか、ここでは必要ない、まだその時期ではないとかと、一方的に決めつけたり、禁止したりする指導です。  

●また、固定的という特徴もあります。悪しき教材主義というか、一方的に与えることしか考えない指導。自分の計画したことを子どもにおろすとか、その通りにさせるとかという、枠はめ型の指導であったり、平面的、非構造的な一斉一律の計画絶対優先型の指導です。  

●一方的に教えてやる、伝えてやる、待ってやる、見ててやるという天下り的、押しつけ的で教師中心型の子どもを服従させる指導も非人間的指導の典型です。  

●同時に言える事は、閉鎖的であることです。我がクラス主義・みんな主義・本時中心主義で画一的な指導です。  

●非人間的指導の最大の特徴は、すべてが教師を中心に展開していく指導です。中心志向的でかつ命令的・指示的・抑圧的・強制的指導によって子どもを教師の支配のもとにおくのです。

(13)関心(INTEREST)について 指導とは子どもへの関心から出発する営みであります。心を子どもに関わらせることから始まるのです。そして子どもの心に関わること、子どもの内面に触れようとすることから、指導が始まります。そのためには教師も自分自身の内面をもつこと、人間と人間的なるものへの深い関心に促されて、自らの内面を見つめ、自分を耕し続ける努力を積み重ねていくことなしに、教師は子どもの前に立ち続けることは出来ないのです。子どもとの内面的な同一化への関心に裏打ちされた指導が求められているのです。そのような関心を喪失するとき、人は心が動かない状態となり、非人間的な状況が始まるのです。子どもとの毎日の関わりに喜びと感動を味わっている教師は、いつも心のときめきを覚え、子どもへの期待と、子どものへの関心にわくわくしながら生活しています。教師と子どもが応答的環境の中で、生活する時に育つものは何でしょうか。日々の生活の中に、心の動く体験、感動体験があり、心や体が躍動し、揺り動かされるような体験があります。心が満たされ、苦労が報われる体験があります。子どもたちからの確かな反応によって応えられていく体験の積み上げがあります。  人間性の開花の場としての保育、乃至教育に関わる者としての、喜びがあり、人間の未来に対する希望が生まれ、人間としての子どもに対する尊敬と畏敬の思いを抱くようになるのです。そして快適さや楽しさ、そして晴れやかさの体験の場としての学校、幼稚園への深い愛着と誇りが生まれるのです。

(14)感覚の衰弱ないし喪失について 現代人の生活のなかで、特に目立つことの一つは、体を動かさないこと、筋肉運動が極端に少ないことであります。手を使わなくても、ボタン一つで何でも操作できる生活の便利さや、足を使わずに車で移動するのが当たり前の生活は、人間から様々な能力を奪いつづけています。おまけに、自然からますます離れていく生活のなかで、筋肉運動を通しての五感による知覚を働かせる機会も失われ、現代人の感覚は衰弱乃至喪失しつつあります。 近年の傾向として、顔の筋肉を動かさない、感情表出が出来ないという人が増えています。様々な外界からの情報についての受容体験が乏しい為に、心の知覚感覚が鈍くなり、喜びや感動を感じる心が失われてしまう傾向です。特に子どもの場合、愛されているとか、守られている、受け入れられているというような、被受容体験の乏しい場合には、打ち捨てられ顧みられなかった体験、淋しく寄るべない自分にとどまり続けた体験、或いは自分に閉じ込められてきた体験として、子どもの心の奥深くに刻印されることになるのです。さらに、小中学校におけるお客さん体験とか、特別視される体験、特別扱いされたりすることによって、自己をそのように見る条件づけ体験の集積による、恐るべき自己解体の危険にさらされていくのです。

●子育ての異変という言葉があります。乳児への「あやし」を知らない親が増えています。子守唄など歌ったことの無い母親が増えているのです。「いないなばあ」や「たかいたかい」など、一切経験が無いのです。そのことは父母との親密体験をもたない子どもが増えていると言うことです。

●汗を流すとか、手足を精一杯に動かして活動するとか、面倒なことに取り組んでじっくり考えたり、時間をかけて努力すること、など全てを嫌う子どもが増えています。

●モラトリアム化(E.エリクソン、小比木啓吾)と言いましょうか、幼稚化現象や家畜化現象の傾向が強まっている時代なのです。

●そうした人間の危機的状況を回復していくための道は、何でしょうか。動くことから始めるしかなりません。筋肉運動を回復することです。手足(特に顔)の筋肉運動や目の運動、視覚機能の回復(ぼんやり何となく見ることから、発見・感動・驚異まで含めて意識的に心を伴って見ることへ)、そして楽しいことに夢中になって打ち込む自己と出会うことです。最後までやりぬく体験の大切さを体で知ることです。

(15)「今・ここで」の感覚・「その都度」の指導への瞬間的決断能力 子どもの指導とは、日々の生活の中で、その瞬間に決断し、直感的に対応していくことが必要です。ぐすぐすしていたり、もたもたしていては、機を逸してしまうのです。そのための感覚能力が必要なのです。具体的にはタイミング感覚といいましょうか、目の前の状況や刺激に、その都度、その場で、直ちに反応する瞬間的な心の動きです。言い換えれば「気働き」というべき感覚能力です。 自己選択的・自己決定的感覚運動を無数に体験していく中で、長い時間と多様な人間関係やさまざまな体験を、くぐり抜けていくなかで、体得していく感覚能力(コモンセンスとか共通感覚とかと言われる力)が求められているのです。「今・此処で・何を・どのように」という瞬間的な判断能力と選択能力、そして決定能力をもつこと、それらの能力と行動能力とを、根源的に統一していくことによって、指導なき指導を教師は体得していくのです。

(16)流動性と仮説性にとどまること(非決定性・非固定性) 子どもの指導を考えるとき、まず何よりも大切なことは、あれこれのことを子どもに教えてやろう、伝えなければ、という構えを教師は捨てるべきなのです。むしろ、子どもに委ねること、任せることを第一に考えるのです。何が子どものなかにあるのか、子どもは何を求めているのか、何が子どもから出てくるか、子どもの側に立つのです。そしてゆったりと子どもの思いや心の揺らぎに任せるのです。子どもに任せるとは、より大いなるものに委ねることに通じています。人間・文化・社会・歴史・民族・国家のすべてを越え、すべてを支えている大いなる力に委ねることです。祈りつつ子どものに委譲する心、子どもに期待しつつ、子どもに臨んでくる大いなる危機に委ねるのです。或いは自然の大いなる意志と力に委ねる、ということです。 そこから、流動性に満ちた子どもと共に創りだしていく世界がひらかれるのです。 どんな偏見にも先入観にも支配されず、何ものによっても固定化されず、自由な仮説性のなかで、子どもと遊ぶ世界が開かれるのです。

(17)委任への献身 教師とは、子どもを委ねられていることへの献身(コミットメント)に生きる者たちです。フレーベルは教師を庭師(ガードナー)にたとえましたが、それは植え、水を注ぐ者としての育てたもう神への献身と、子どもへの献身との同一化を示す言葉であります。共に育てられる者として、枯れ枝を切り焼き捨てる者と、切り取られ焼き捨てられる者の同一化。すなわち、教える者が最も厳しい神の裁きに合うことへの自覚であり、指導する者と指導される者の同一化の世界に生きる教師であることを示唆しています。人間が人間を教育するという、恐るべき営みへの神の招きと人間の応答としての献身であり、その故に使命感と呼ばれるのです。生きることと生かされていること、許すと許されるとの同一化の世界がそこにあります。教師と子どもは共に育つ関係にあります。そして共育から響育へと招かれているのです.共存から響存へと、創造的営みの同労者なのです。 子どもと対立し、向き合うことをやめて、子どもと共に並んで立つ教師であること、子どもと向き合う姿勢からの脱出を、日常的にあらゆる場面で試みる教師であることが求められるのです。

(18)教師の権威・カリスマ性について(尊敬される教師) 子どもは親の所有物ではありません。そして教師は子どもの支配者ではありません。親も教師も、そして子どもも共に神による被造物として、平等の人格として神の前に生かされている存在です。教育とは、子どもを親や教師の良きパートナーとしていくための営みであります。神の創造になるこの世界を、より良い世界に変えていくために、共に働く仲間、兄弟にしていく営みが教育であります。神の家族の一員として兄弟姉妹の関係にある、といっても良いのです。「神は人をご自分の姿に似せて創造された」と言われるように、「イマゴ・デイ」(神の似姿)を分有するための営みが教育なのです。さらに、”このいと小さい者にしたのは私にしたのである”というキリストの言葉によれば、神に仕えることと人に仕えることとは同じ一つのことなのです。神に仕える僕・奴隷として、人は他者に仕えます。教師はキリストに仕える思いをもって子どもに仕えるのです。 同時に神の代理者、神の権威を委ねられている者として教師または親は、子どもを訓練し、鍛える任務と責任を負わされるのです。 愛とは受容であると同時に、厳しい断絶でもあります。 愛するが故に赦さないという厳しさを内にもつのが真の愛であります。それは両刃の剣であり、関係を切り裂くものであり、同時につなぐものでもあるのです。教育的愛は権威をもって子どもと対決することを恐れません。「駄目なことは駄目」という厳しい原則を貫くのが愛であります。そこには神に自らが裁かれつつ裁く者としての教師、親がいます。神への畏れを抱きつつ、恐れおののきながら決着をつける者としての生き方が求められるのです。そのような存在の仕方を選びとる者、それが教師であり、親なのです。そのような生き方のなかに、教師の権威と「カリスマ性」が生まれるのです。子どもに尊敬され、畏怖を感じさせる教師であることが求められます。

(19)分ける感覚(厳しさの中の優しさ・愛の厳しさ) 前項で取り上げたことを、別の角度から分析すれば、教師の価値観の問題であります。何を大切にし何を無視するかという価値観が、教師の日々の指導のあり方を決定していくのです。 いわゆる「見分ける力と感性」の問題です。ツッパリと自己主張の違いを見分けること、安定と不安定、甘えと要求、などなどの見分けと対応の仕方の問題です。教師は聞き分ける力がなければなりません。泣き声を聞いて、それが怪我をしたのか甘えなのか、痛いのか淋しいのか、直感的に聞き分けたり見分けたりする力が必要なのです。 子どもの喜びと悲しみを、痛みといらいらを聞き分けたり、嗅ぎ分ける感性を持ち、直観的対応をしていくのです。そこはかとなく臭うもの、なんとなく漂うものへの鋭い感度をもつのです。的確な判断や即時の測定によって、子どもへの応答を行ったり、子どもの問いや求めに応えて、妥協や許しを与えたり、時には子どもに寄り添い、同情といたわりをもって、絶対に見捨てぬことを分からせたり、厳しく断固として毅然たる態度を示したり、と千変万化の対応をしながらも厳然とした価値観をつらぬいていく姿勢が大切なのです。分けあう感覚、同じ心・同じ思いを分け合うこと、一つの心・同一化・同じ立場に立つことが教師の基本的姿勢なのです。

(20)「間」(はざま)の感覚 自己の投げ入れと留保・絶対化と相対化・夢中と冷静・本当と嘘・真剣と遊び・真面目と余裕の同一化の世界に生きるのが教師である。「間」の中で、必死に生きる・楽しむ・打ち込むこと。嘘・偽り・いい加減・騙し・はぐらかし・まやかし・見せかけのない生活。「今を」かけがえのない・唯一の・ただ一回の・不回帰性のものとして生きる。永遠における今、「間」における「今」に生きる感覚を磨くこと。

(21)通過の感覚 通過するものとしての自己・家・両親・教師・・・文化・歴史、さらに上を見る・仰ぐ・向く、自己変革への意志をもちつづける教師であること。自己の内に、現前するものを通過し、突き抜け続けていくこと。自己の底を突き抜け、破り、通過して、自己を獲得し続ける態度。到達すべきもの、実現し創造すべきものとしての自己、そして保育。

(22)日常生活の中の「あぁ、そうか」体験 洗顔の後、手と顔のどちらを先に拭くか・後から使う人のために・お尻の拭き方・髪をとかす・手足の洗い方・清潔感と不潔感・もぎ取る・もぐ・摘み取る・つまむ・浸す・口に含む・うがい・察する・言葉の使い方・声の出し方・目のやり場・耳の使い方、顔の動き・態度・姿勢・片付ける・しぐさ・身のこなし・物の持ち方・渡し方・観察・状況の察知・予測の仕方・挨拶の仕方・返礼の方法・道具の使い方・物の配置・配色・料理の方法・食事のマナー・運動機能(なわとび・自転車・ボール投げ 等々)・恐怖感・幸福感・悲哀・喜怒哀楽 等々、日常生活のささいなことの中で、体得されていく感覚の大切さ。

5.まとめ -残された課題-


●指導における臨界距離の問題について  ・動物の「なわばり」行動と人間の社会的行動の類似性/外からの驚異に対する反応  生物としての必然/防衛本能/防衛範囲・防衛能力を超えること/等の問題。

●逃亡・自己閉鎖  ・自己喪失体験の集積/自己解体と自己崩壊の危機にある子どもたちへの援助について  ・身体的・物理的・感覚知覚的・心理的・精神的・感性的・人格的なもろもろの抑圧のもたらす非人間化の危機から子どもたちを救い出すために。  ・受動・依存・攻撃・拒否・否定・無気力・無反応・無意識・無関心・無作法・無目的・無表情・無常識・無責任・無自覚・無自己・無抵抗・無批判・無能力・無学力・無教養・無節制・無定見・無思想(20無主義)等の克服の問題。

 ●「子どもとは何か」から「子どもとは誰かへ」。

 ●三つの知識  ・知らねばならない知識/縁のない知識/知りえない知識

 ●自然体の指導/自然体を自らのうちに創造する教師であるために。 幼児の指導に関して若干の私論を試みた。明治以来のわが国の文化対策、特に教育政策は多くの矛盾をはらみ、人間の教育に関する基本的諸条件を確立せぬまま現在にいたっている。人間が人間として育つための根本的な諸条件が損なわれ、もしくは無視され、否定され続けた100年という年月の持つ計り知れない重さを、自分自身のこととして背負い、引き受ける以外に道はないように思われる。

1988年8月

1.「指導なき指導」を実現するための「指導の構造」を考える


[第一の構造]基礎構造「子どもの側に立つ」
指導なき指導というのは、もともと大変な矛盾をはらんでいる考え方であります。 しかし、これまでごく当たり前のように行われてきた、教師を中心とする「上から下への指導」を否定して、教師と子どもとが共に並んでたち、子どもの生活やそのなかでのさまざまな遊びや活動のなかから、カリキュラムを生み出してくる保育実践を実現していくためには、指導者としての教師がどのように、子どもに対して自分自身の立場をとるのかということが、第一に問われることなのです。 教師と子どもとが、共に並んで立つということ、そして子どもの内面の心によりそって、子どもの願いや思い、子どもの要求を、深く読みとっていこうとする心の姿勢をしっかりと持つことが大切なのです。 教師にとって最も大切な条件は、子どもと共に育とうとする自分自身への願いや要求をもつことであります。 子どもに学び、子どもによって育てられようとする姿勢が教師にないかぎり、この試みは無理なのです。 子どもと共に感動を共有し、子どもの喜びや悲しみを共に分かちあえる教師でないと、子どもと響存する場としての保育を生み出していくのは無理なのです。 以上のような考え方から、指導における第一の基礎構造は、「子どもの側に立つ」という、きわめて単純で当たり前の原則であります。うらがえせば、子どもの人格性の尊厳へに対する、畏敬の念を抱きえないもの、自己の内に構築しえない者は、人間の教育に関わってはならないという大原則を、第一に確認しておきたいと思うのです。

[第二の構造]機能構造「指導し、援助する側に立つ」
教師としてどうしても立たなければならないのが、大人としての場・子どもとは別の場・子どもを指導する場に立つことであります。 教師は、さまざまな場面で子どもを指導し、その場に必要な支持を与えたり、場合によっては絶対に妥協を許さない命令や拒絶をしたり、厳しい指示を与えたりすることもあります。 生命の危険や健康上の著しい悪影響のあること、他人に危害を及ぼすこと、などについてはいかなる妥協もあいまいさもなく、教師は大人として子どもに極めて真剣に、最大限の真面目さをもって「しつけ」行動を選ぶのです。そのような時には、教師は正に裁判官であり、検事であります。教師のもつ人間としての価値観をまともに子どもにぶつけていくのです。成熟した大人と未成熟な子どもとの関係がそこにあります。 もかかわらず、教師はもう一つの顔をもつ存在なのです。子どもの仲間として、子どもとともに園生活を生み出し、創造して行くために、子どもの内面への参入と潜入によって、子どもとの同一化を求め、子どもの場に立つという矛盾を抱えながら、人間の教育に挑戦し続けるための機能構造が、「子どもへの援助者」としての第二の構造「指導し、援助する側に立つ」ということなのです。 人格と人格の出会いとしての教育・協働の関係において共に生きる人間同士としての教師と子ども・今を真剣に、そして誠実に生きようとしている人間として迎え入れられる場としての園や学校・愛と受容による人間的同調作用を、共有しながら生きることによって生まれる、生体リズムの同調(表情・見ぶり・手ぶり・話し言葉・ボディランゲージ・ノンボーカルランゲージ)を実現していく教育・子どもが教師に似ていくということや、さらに転移(似る)から転位(性格の定着)にまで高められていく教育実践を追及していくための構造であります。

[第三の構造]超越構造「共に並んで立つ」
・・畏敬の構造 自己を越えるものとの同一化を求める、祈りと求道の思いが、保育する者の内面に通底している畏敬の構造であります。時間の重構造(現在・未来・過去の同一化)の中で、大いなるものに注がれる畏敬のまなざしが、同時に教師が子どもを見つめる目でもあるのです。 教師は子どもと「向き合う」のではなく、大いなるもの、永遠なるもの、超越するものに向かって、子とせもと「共に並んで立つ」姿勢を失ってはならないのです。 この第三の構造が、戦後のわが国における教育に欠けていたために、現在のような混乱と崩壊の現象を招いたのではないでしょうか。

2.指導なき指導の具体的展開について


(1)指導する者(教師)と指導される者(子ども)との同一化の関係 教師の全存在・・人間としての全て・・生きて在る・・存在し生活する営みの、全てが指導そのものであります。「在りて在る私」「私は私である私」としての全存在を賭ける営み、互いに全存在を賭けあう営み、人間として共に生き共に存在するもの同志として、教師と子どもが一つに結ばれた共同体として生きる関係、主客同一化の関係が指導の基盤であります。子どもの喜びが教師の喜びであり、子どもの悲しみが教師の悲しみであり、共に生きることを感動をこめて分け合い、謳いあげていく関係であります。

(2)「見る」と「観る」の統一と同一化 自分の視野の外側へ、拡散していく子どもを捉えている意識が一方にあり、他方には自分の視野の内側にいる子どもたちを、同時に捉えていく意識をもって、教師はつねに鋭いアンテナと感覚を働かせながら、子どもを見守っていいる存在であります。教師の目は単に対象である子どもを「見る」ことから離れて、子どもの全体・全身全霊を、分析的に深く、鋭く「観る」目に昇華していくのです。いろいろな方向に分散していく子どもたちを、自分の意識のなかへ集中させていくという、同時拡散的で、かつ同時集約的な意識の働きが、指導という営みを支えています。いわゆる、背中に目をもつ教師であることが要求されるのです。 しかもその際、子どもを批判的な評価の目や品定めの目で見てはならないのです。そのような冷たい視線を、子どもは敏感に察知して、教師との同一化の世界から身を引いてしまうのです。一方的な「やらせ」の指導が、子どもを無気力にしたり非人間化していく原因はこの辺にもあるのです。 自分が見ているものを肌で感じる力、というのは手で触らなくても、体全体で感じ取る力のことであり、主観と客観を統一ないし合一させる力のことであります。見ている自分と相手の中に参入している自分との同一化であり、見ている者と見られている者との同一化であります。 そのような営みにかかわる教師に求められている力とは、「間」(ま)の感覚としての指導や援助についてのセンスとタイミングの感覚であり、「心を間におく」乃至「間にとどめる」というような、余裕やゆとりの感覚であります。 子どもたちが示す、あらゆる変化に対応していくことのできる、豊かな感性や感覚の構えを作り上げ、磨き上げていく努力が要求される所以です。  言葉を媒介にしない直観的意識に自分を委ねながら、具体的・身体的な日常の保育活動での、子どもとの出会いのなかに、自分の全てを投入し、没入していく営みの中で、教師は自分のセンスとタイミング感覚を体得ないし会得していくのです。別の言い方をすれば、日頃の意識状態の中で培った能力や技術を、無意識の場で使っていく営みが、日々の保育実践であり、子どもの教育と言う営みは、長さや量として測られる時間、または回路づけられている継続的時間とか、日常的・合理的・言語的思考を支える時間、さらには知的理解や技術の世界等々を、越えることによって始まる、実に深い全人間的な「心をつくし、思いをつくし、力をつくして」取り組まれる営みなのです。 子どもの教育とは、熱中し、没入し、夢中になり、無我・無心となる世界において、炸裂し割れていくような感動の時間を体験する世界での営みなのであり、冷たい、非人間的な条件づけや制約、禁止、限定などという否定的な条件を伴わない、豊かな喜びの時間、さらに無意識的直感の世界に自分を解放していく時間を体験し、自分を越え、時間を越え、空間を越える超越体験を与えられる営みなのです。そのような営みを支えるのが、上に述べた三つの構造なのです。

(3)超えるということ 人間は、見える・聞こえる・分かる・触る・知っているという、理性の世界、現象の世界のなかで毎日を生きています。しかし、それだけが人間の生きられる世界ではありません。 見える世界の彼方、または背後に、そしてもっと深い実存の底にある世界も、人間のものです。そこに迫っていく態度を獲得していくことも、教育における重要な課題であります。自己の存在の底を破って、自分を出ていくこと、自分を離れること、そして自我(エゴ)から自己(セルフ)への道を辿ることも、教育における大切な課題です。目には見えず、隠されているがあるもの、見えている世界から見えないけれどもたしかにある世界への飛翔と飛躍を試みるという、心の自由というか、自分にも何ものにもとらわれない、伸びやかな心を獲得していくという課題です。 簡単に言えば、幼稚園というところは、子どもが日々の遊びへの挑戦の中で、自分を超える体験を、存分に経験している場所なのです。子どもの遊びとは、自分が自分をよびだす営みです。朝、幼稚園に登園してきた子どもと、午後降園していく子どもとは、同じ子どもではないのです。子どもは日々に古い自分から新しい自分に変容し、発達し続けているのです。古い自分を捨てて、新しい自分を「呼び出し」て、掴み取っているのです。そのような自由で豊かな遊び体験を通して、子どもは固定化による自己解体や自己崩壊の危機を、乗り越えていく力を獲得していくのです。

(4)二つの自由 自分を十分に発揮する、自分を存分に出し切ることによって、子どもは自分を掴むというか、本来の自分に達する体験をしているのです。そこには、二つの方向があります。一つは自分をさらけ出すこと、自分を危機にさらすことであります。子どもは自分の選んだ遊びのなかで、問題としての自己を発見していきます。自分の出来ることと出来ないことと、得意なことと不得意なこととに出会う中で、自分の課題を発見していくのです。夢中になって自分の課題に挑戦する体験とは、自己突破と自己否定の体験であり、自己放棄と自己犠牲の自由への挑戦であります。即ち自己から出ていく自由を、子どもは獲得していくのです。 さらに、子どもは、そうした体験を通して、自分を絶対化しない自由、仮説性にとどまること、自己を相対化していく力を獲得していきます。それは自己にとどまる傾向からの自由であり、自己変革への自由であります。自己の内から自分の未来を創造していく力を獲得していくのです。自分をしばりつけたり、自分をある一つのことに、いつまでも固定しておかない自由と、自分の視点を固定しなで、より広くより高くより深い視点で見る自由、そして自分の人生を自分の責任において引き受けていく方向への自由の獲得であります。自己放棄と自己獲得という二つの自由の獲得であります。

(5)脱中心化への教育という課題 子どもは親や教師との確かな信頼関係に生きることによって、主客同一化の世界に開かれていきます。 そして自分が生きているこの世界と人間に対する、信頼と愛に裏付けられて、自分独自の世界を手に入れていくのです。それは子どもらしい、そして子どもにふさわしい、自分以外の何ものによっても支配されない、「私は私である私だ」という、生活の主人公としての自分の世界であり、同時にその世界の中心である自分自身の「今」に、まったくこだわらない自分、常に未来と明日に向かって、成長し前進し自分を後ろに脱ぎ捨てていく、自由な自分の世界をもつ子どもであります。 いわゆる「脱中心化への教育」という課題が、自由の子どものなかで達成されていくのです。見たこと、聞いたこと、知ったこと等々、子どもはいろいろな体験をしていくなかで、それらの「事柄」には、人間としての「わきまえ」として、言っていいことと悪いこと、知らせていいことと悪いことと、様々なケースが存在することを学んでいきます。 そして、「さりげなく」ふるまうこと、「何となく」とか「それとなく」知らせること、「そっとして」「見ぬふり・知らぬふり」をする、とかという人間の心の微妙な機微についての了解や知恵を獲得していくのです。人の痛みや傷に触れない「何を言わないか」の言語学の世界、意味や用件を伝えるだけが言葉ではないということを知るのです。話題の中心にとらわれない心、人の痛みや悲しみに踏み込まないという「脱中心化」の態度を身につけるのです。目は口程にものを言う世界、しぐさを通して心を伝える世界への旅だちが始まるのです。

3.指導の在り方について


(1)非人間的指導の事例

  • 命令的指示的指導
    子どもは受身的・依存的になり、合図や条件付けを待つようになり、さらに自分の生活の課題を責任的に引き受けることを避ける傾向や、困難な課題に立ち向かう積極的な意欲を失っていくことになります。無関心型・無気力型・無意欲型の子ともや、反対に攻撃型・ツッパリ・だだこね・ぐじぐじ・うじうじの子どもを作り出す指導です。わざと子どもの痛い所を突っつく指導・子どもの神経を逆なでするような指導・さらに子どもに追い撃ちをかける指導・重箱の隅をつつくようなしつこく細かすぎる指導などが一般的であり、信念の固定化と一方向しかもたない信念というか、ばかの一つ覚えとか、専門ばか的指導といわれるものです。
  • 身をひく指導・はじご外しの指導
    子どもが困難な課題に向かっている時に、適切な援助を与えないで、ほおって置いたり、見過ごしたりしている状況が続くと、子どもは物事に対して投げやりなったり、不安定状態に陥ったり、受動的ないし攻撃的な性格に導かれていくみとになります。このような指導はかんしゃく・わがまま・不安定・ツッパリ型を生み出す指導であり、教師と子どもとの間の感情関係の欠落を招き、情緒的・美的・創造的な諸体験の欠落を招く指導であります。
  • 子どもを手なずける指導・母親感覚の指導
    子どもを教師のコントロールの下におこうとする傾向をもつ指導であり、いつも子どもを依存状態の中にとどまらせておく指導で、子どもの退行現象を招く指導であります。そして教師の視野の外にいる子どもは無視され、子どもの生活が広がらない指導です。子どもをバラバラに孤立させてしまい、集団思考や共通体験ができない、共通意志とか共通目的等を形成する体験の場を作れない指導でもあります。教師も子どもと共に主体性を確立していくことのつらさや痛みを体験する必要があるのですが、自己に出会うとか、自己と対決する、或いは自己に到達し、自己を突破する、孤独な痛みの体験を,子どもと共に分けあう余裕をもたない指導であります。母親感覚で子どもを指導する教師は、子どもの退行現象に引きずられ、泥沼にはまったような状況に落ち込むことになるのです。
  • 子どもに拒否され不信感を抱かれる指導
    イメージの貧困な教師、子どもとの約束を忘れる教師、その場限りの対応でお茶をにごす教師、でまかせとおもねり、或いは脅かしによる指導などの非共感的指導は、子どもに心理的に拒否され、不信感を抱かれてしまいます。子どもの揺れ動く心やひらめきとかときめきに対して響き合うこともなく、子どもの驚きや感動に鈍感な教師による指導というのは、子どもに捨てられ拒否されることになります。のろま型、ぼんやり型の生気・活気・やる気・見る気・話す気・聞く気・動く気等々生き生きと生きている感覚の乏しいタイプの人は教師になってはいけないのです。また緊張感欠如型の人も、反対に恫喝と制圧型の人も子どもの指導には向いていません。
  • 手抜き・心抜き指導、間・抜けの指導
    手抜き、足抜き、心抜き、特に感性抜きの指導はいただけません。センスとタイミング感覚を持たない指導とは、「間」抜き指導であり、むしろ「間ぬけ指導」であって、人間的な感性や感覚の抜け落ちた、子ども殺しの人間性剥奪型の指導であります。保育室・園庭の掃除から始まって、教師の日頃の態度から服装、髪型、口調、持ち物等々のすべてが子どもの人間としての発達に、重大な感化を与える条件であり、それらのどの一つを欠いても、指導の欠落をもたらすことを銘記しておくことが必要なのです。間抜き指導とは時と場所に対応しない指導です。肝心なときに間に合わない、そこにいても応答しない、反応できないということは、随時随所・適時適所の指導の欠落を意味します。足抜き指導とは時間の見計らいの欠落した指導であります。ロッカーやピアノの向こう側に落ちたものに心が向かない、物かげや視野の外に出たものに心が引かれない、乃至はそういうことが、心に引っ掛からないという無頓着・無感覚な人は、子どもの指導に向かないのです。小さなこと、ささいなこと、ごみのようなこと、目立たないことを自分の心に引っ掛けておくことのできる人、見逃さない人、気づく人、気にかける人、それでいて神経質でない人、おおらかな人が、子どものために求められているのです。
  • 子どもと向き合う指導・機械的指導
    指導の対象としてしか子どもを見ないという、子どもを原材料化し、素材化、道具化、手段化、計測化し、さらに物質化してしまうような無味乾燥で味気ない一方的な指導を機械的指導と呼びます。はじめに教科ありきで、子どもは二の次という考え方です。子どもを客体とし、物質として見る指導であり、因果(原因と結果の論理)、できる・作る・知る等の能力や技術・技能の世界でのみ子どもと向き合っている指導であります。高みに立って子どもと向き合っている教師に多い傾向です。
  • 偏った指導・主義による指導
    みんな主義の指導とは、同じことを同じ時間に全ての子どもを対象に指導する方法で、みんなにまんべんなく同じ経験を保障するという、とても効率の良い指導法です。しかし一方では一人ひとりの要求や願いは無視され、圧殺される指導法です。 本時中心主義という指導もあります。その時間に教師があらかじめ計画したことを、何が何でも、どんなことがあろうとも、計画どおりに教えてしまう、という指導法です。 ある時、ある園の園長がこぼしていた言葉を思い出します。ある朝、登園したらその日は珍しく大雪の日でした。ところが先生たちも子どもたちも誰一人園庭に出てこなかった、というのです。みな、その日に計画していた活動を、計画どおりにやっていた、のでした。たまに雪が降った日くらい、その日の予定を変更して、みんなで雪合戦や雪だるまづくりに夢中になったら、どれ程楽しいか、結局園長と事務職員の二人で雪だるまを作ったということでした。 よくベテランといわれる教師は、実に上手に子どもたちを自分の指導計画に乗せていき、時間内にきちんと日案どおりの内容をこなしてしまう力を持っている人と言われます。指導案通りに子どもを引き回すのが力のある教師として評価されるのです。まるで調教師の世界ではないでしょうか。また、一人ひとりへの対応主義の指導法とは、一人の子どもへの指導を大切にするあまり、目の前の子どもに集中することに固執して、他の子を無視し、見殺しにする危険をもつ指導です。さらに、独り善がりの思い込みや固定した立場(イデオロギー)に立ったり、または逃げ込んで行われる指導もありますが、それらの指導法に共通のものは、何れも子どもの立場に立つというよりは、指導する教師が優先するということです。
  • マニュアル型とアニマル型 -技術指向型の指導-
    保育方法についての講習会は昔から大盛況と言われます。ハウツーについてのマニュアルによる指導というのは、いずれも「もの」化し、機械化した人方法に頼ろうとする人間の危機状況を示す指導というべきでしょう。技術や道具、或いは手段に頼り、測定や計量化という統計の対象として、子どもを捉えていく方向からは、本当の人間の教育は見えてこないのです。伝統に固執したり、教科書を金科玉条のように大事にする指導は、結局、定食型・飼育型・教師中心型の指導を生み出していくのです。

(2)人間的指導の事例

  • 応答的指導・人格的対応型指導 子どもに求められるときだけ応答する指導
    子どもが行き詰まって途方に暮れた時、人間的に応答する指導のあり方を追求したいと思います。それは、世界と人間を信頼する感情(基本的信頼感・基本的安定感)を育てる指導でもあります。愛着安定型・積極的・意欲的・能動的な子どもが育つ条件としての、応答的な指導を大切にしたい。応答的指導が欠落すると、子どもを動物的状態ないし無気力状態に追い込むという恐るべき転落が起こる危険があります。
  • 子どもを受容する・子ども主体の指導
    子どもをあるがままに、全人間的に受容し、教師と子どもとの相互信頼を基盤として、開かれた関係における自由な対話の世界を生み出し、共感、響存、共生の世界を、子どもと共に創造していく教師の姿勢が貫かれている指導を実現していくことが、私たちの課題であります。はじめに子どもありきという思想に立つ指導です。
  • 自己信頼感・自己価値観・安定感・責任感をもつ子どもが育つ指導
    子どもの自由を尊重し、自主的・主体的な生活を大切にする指導を積み上げていくことによって、子どもは自分に安定し、自分自身の存在に確かな価値観を抱くように育っていきます。いわゆる等身大の生き方のできる子どもに育つのです。当然のことながら、子どもは子どもなりに自分のことに責任をもつような生活者として育っていくのです。
  • 子どもの自立を助ける指導
    教師と子どもとの心理的距離と身体的距離の取り方は、園生活の発展と共に微妙に変化していくものです。教師はさりげない適度の距離を保ちながら、子どもの安定度に適応して、指導の間合いをとるのです。 教師と子どもの心と心のつながりが深まるにつれて、生物的つながりから人間的つながりへと昇華させていき、子どもの独り立ちを助け、自立を支えていく指導を大切にするのです。 教師と子どもの関係とは、手で聴き、目で触り、耳で見、体で読み取り、皮膚で感じる世界での応答の関係であり、人間としての繊細で柔軟な感性や豊かな情感が最も大切にされる、霊妙な人間関係なのです。言葉のいらない表現の世界がそこにあります。心を残すとか、微妙な「間(ま)の感覚」とかが、教師と子どもの間に、日常的に行き交う世界であり、同時に人間としての全体感覚がいつも問われている世界、それが保育の世界です。子どもがひそかに自立をしていくプロセスのなかで、教師は子どもとの距離を生み出していく感覚を働かせ、教師と子どもの間にさりげない空間を作っていきます。そうした感覚のやりとりのなかで、子どもの感性が発達していくのです。子どもが自立することの根底にあるもの、それは自己教育力と自己内形成力であり、そうした子どものもつ力への信頼が根底にあるのです。技術主義・物質主義の指導は通用しないのです。幼稚園は動物園や工場ではないのです。教師は出前もちやご用聞きではなく、子どもたちとの隔たりを適度に保ちながら、必要なときに必要なだけ、子どもを援助できる距離に存在することに心を砕いているのです。
  • 子どもとの響存を求める指導
    子どもと教師とはそれぞれ全く別の存在であり、別の時間の中に生き、別の時間体験の中にいるのですが、子どもとの響存と共存を求める教師は、自分の時間を子どもの時間にしていくのです。子どもの世界と教師の世界とを同一化していく営みの中に、教育における「指導なき指導」の世界が開かれてくるのです。そのために、日頃身につけている自然的態度(自分を根拠づけ、自分を形成してきた結果、自分の中に厳として存在するものとしての)を、「根源的に問い直し続けていく」こと、自分への問題意識をもちつづけること、そして絶えず自己変革の道を歩き続けることが、教育に携わる者に求められる基本的条件となるのです。教師が主観主義から自由になることによって、自分勝手な思い込みの世界、自分のなかに閉ざされた世界、固定化した自己完結型世界から自由になることができるのです。 それは同時に、倫理感覚としての生命への畏敬の念の欠如した世界から自由になり、固定化・絶対化からの自由を獲得していくことであり、教育が成立していく前提がそこにあるのです。
  • 終末からの教育・時間への教育
    死に向かい、死を生きている者同志として、時に死の事実に出会って、死というものを自覚させられたり、気づかされたりする体験を通して、教師も子どもも生命の有限であることを学んでいきます。生きるとは、人生の最も大切な死の瞬間のための準備であると言えるでしょう。一期一会という言葉の通り、人間も動物も明日の命の保障は無いのです。出会いと永遠の別れとは、一つであり、生命と時間の有限性に気づかせていく指導も、人間の教育に欠かせないことであります。
  • 子どもの今を見つめる
    子どもの「今」は、両親・祖父母・祖先・教師・地域・時代・民族の文化・歴史のすべてと共に現前している今であります。教師はそのような膨大なルーツを背負う子どもと生活するのです。目の前の子どもを超えたところからの、見えない様々なメッセージが、子どもの今を支え、構成しているのです。それらの全てを背負っている子どもと共に在ること、そしてそれら全てを子どもと共に担って、子どもと共に生きることを願うのが、教育を志すものに与えられている人類史的な課題なのです。子どもを指導するとは、本当に畏れに満ちた営みであり、同時に人間の教育を担当する者に与えられている、光栄にみちた、神の恩寵と恵み、祝福にみちた営みであります。
  • 拡散的指導
    教育における教師と子どもとの関係は、つねに弁証法的指導を仲立ちとしています。子どもの内面により沿う指導とは、「ここ」と「あそこ」、「この事」と「あの事」、「目の前」と「視野の外」、「心をそこに」と「心をあそこに」、心を「残す」と心を「込める」(残心と入心)等の二つの方向に向かうものが、拡散しながら同時に一つに集約されるという形で指導が行われるのです。私たちは因果論的・演繹的指導を否定します。こうすればこうなるという、原因と結果を機械的・合理的な因果関係によって予測して、人間の行為や活動を決定するような、非人間的指導にしばられてはならないのです。
  • 脱中心化の指導(自分にとらわれない指導)
    先に述べたような、全体を中心からでなく、むしろ周辺から捉えようとする指導法を私たちは大切にします。例えば、肉体や身体という理性(中心)から最も遠く離れたところ、そして最も日常的であり同時に、最も根源的なところから、子どもの発達を捉えていくような指導方法を確立していきたいのです。
  • 人間的感情・価値観・人間化への要求をもつ指導
    その場限りのごまかし的・場当たり的な指導は、子どもに否定され拒否と不信と軽蔑を受け、相手にされなくなるものです。よりよく生きたいという、人間的な願いから生まれる教育要求や、確かな価値観をもたない教師の指導は、盲目的指導(盲人が盲人の手を引く)であり、子どもの中に人間が育たないことになります。 人間として生まれ、存在することに誇りと喜びをもち、人間として生き活動することの意味や価値を求めて、真実なもの、善なるもの、美しいもの、聖なるものへの、憧憬を抱いて、絶えず前進し育ちつづける人間化への要求を、教師は子どもに提案し続けるのです。
  • 未来へのまなざしをもつ指導
    教育とは、生を賛美し、人間であることのすばらしさを、教師と子ども、そして親たちと共に歌い上げていく営みであります。歌を忘れたカナリヤであってはならないのです。また上を仰ぐことを忘れてもなりません。上に注ぐまなざしと未来へのまなざし、そして自分を超えるものへの思いを忘れると、人間は自己完結型や目の前の現れては消えていく、つかの間の現象だけにとらわれる刹那的生き方に落ちていくことになります。人間の無限の可能性に対する好奇心や関心、探求心を失い、うつむいて下を見るだけの姿勢と目の前の現象だけにとらわれる生き方に終始することになるのです。生きる喜びを精一杯に謳いあげていく、生のダイナミズムを失った、チマチマ・セコセコ・イジイジ・ジメジメ・ウジウジ・ガサガサした指導は、必ず子どもに見捨てられることになります。人間の尊厳に対する深い尊敬の思いと、確かな信頼に裏づけられた、確固とした理念や哲学をもつ指導に対して、それらのことに無頓着で、無原則な指導が行われる時、いわゆるプリンシプル(原則)のない指導とか、アイデンティティ(主体性・一貫性)のない指導が生まれることになります。しかしそのような指導は、必ず子どもに否定されるものです。自由とはきびしく厳粛なものなのです。

4.人間的感覚を育てるための具体的問題提起


(1)現代生理学における感覚の捉え方

●人間の基本的感覚としての五感(視覚・聴覚・嗅覚・触覚・味覚)の研究から熱感覚とかさらに皮膚感覚・筋肉感覚・速度感覚・姿勢感覚・身体感覚・全身感覚・空間感覚などを研究課題として文化人類学や心理学、現象学など多くの学問分野との連携による学際的な研究が進められています。  教育の現場においても、子どもの発達についてより広い視野をもって、見つめていく必要があると思います。 特に、第六感とか直感・直観・予感・予覚・予知・内感・感知・暗黙知・前理解・共通感覚(諸感覚を統合する根源的感覚)などについての、哲学的、人間学的視点からの研究に深く学んでいく姿勢が大切であると考えます。

●教育の分野において、生活感覚--居住感覚・美的感覚(色彩・リズム感・配置感覚)等についの理解や場の感覚・相対感覚・連帯感覚・受容感覚・脱中心感覚などといった課題についての理解を深める必要があるのではないでしょうか。

●指導の問題を考える場合、教育の現場における人間的・人格的生活体制の必要性、即ち開かれた生活体制づくりの必要性についての理解が必要であり、ややもすれば教師の陥りやすい、自己の絶対化、固定化と形式化と閉鎖性、さらに自己完結性への傾向を突破していく意識づくりの必要性を強調したい。

(2)教師と子どもの共通課題---気づき(Awareness)について 子どもは教師に「気づかれる」ことから出発して、自分に気づく、自分の力や感覚に気づくことに導かれていきます。子どもは生活の中で、自分で考える、自分が動く、或いは動かすとか、つくる、感じる自分に気づき、自分の世界に気づいていくのです。自分の中の「有」と「無」に気づいたり、自分を超えるもの、自分の外なるものへの気づき、そしてある時、自分の限界に気づいたり、挫折体験を味わったりするのです。そのような環境のなかで、自と他の存在への気づきをまなざしを獲得していくのです。自分というものの存在感を獲得することによって、自分を乗り越えるとか、自己変革の力を獲得していくのです。現代の人間が置かれている危機とは、自己解体や自己喪失現象といわれるものであり、脱存在感というか脱力感とか倦怠感、自己からの離れすぎ現象、さらにはモラトリアム(猶予)感覚などでありますが、そうした危機からの脱出という課題は教師と子どもの共通のものであります。

(3)反対感覚(気づかれるから気づくへ)--もう一つの気づき 全ての人間行動には、能動と受動の二面性があり、一つの行動はその反対の行動によって支えられ、平衡を保つという原則があります。一つの行動感覚は、同時に反対感覚をも伴っており、正と反との間の無限に多様で、微妙な様々な角度・強度・斜度・色合いの変化を含んだ、多構造的な感覚を引き起こしながら獲得されていくものであると言われます。 例:できる・できない/見る・見られる/壊す・壊される/投げる・投げられる/叩く・叩かれる/触る・触られる/気づく・気づかれる/聞く・話す/喜ぶ・喜ばれる/愛する・愛される 等々  子どもは愛される体験が基礎となって、愛することができるようになります。 教師や親に愛され、気づかれ、配慮される体験が無ければ、子どもは同じように愛したり、気づいたり、配慮することの出来ない人間に育つことになるのです。

(4)体験の言語化と感覚能力の育ち 単なる言葉によるよりも、具体的な体験を通して人間は多くのことを学んでいく存在でありますが、一方で、体験や行動だけで終わってしまっては、不十分な場合も沢山あります。そこで、体験を言語化することによって、意識のなかに定着していくように援助する営みが教師に求められるのです。体験を通して感じたこと、気がついたこと、発見したことや学んだこと等を、言葉によって整理し、確認しながら、感覚能力や 感じとる力、行動の意味や価値を分析したり評価する力等を、日常の様々な生活体験のなかで、育てていくことが大切なのです。

(5)結果や因果律を予測する能力 人間は、行動の結果についての予側・予想・予期・予感・期待・読む等の能力をもつことによって、人間化のプロセスを歩み、自分の行動についてのより豊かな自由を獲得していくのです。そのような予測能力が論理や倫理の基礎能力なのです。その場の関係や・状況を読みとる能力を育てること、その場に相応しい態度を選ぶことが出来ること等の指導が、日常的にさりげない小さな出来事のなかで、丹念に行われることが大切なのです。  チンパンジーが、床や道路に自分の食べたバナナの皮を平気で捨てるのは、誰かがそれを踏んで転ぶだろう、という自分の行動の結果についての予測能力を欠いているからです。  

(6)保護感覚・受容感覚の発達について 保護されるから保護するへ、気づかれるから気づくへ、守られるから守るへ、愛されるから愛するへ、支えられるから支えるへ等々の、保護する感覚や受容する感覚というのは、自分が受容される感覚が基盤となって育つものであることをみう一度確認しておきたいと思います。例:年少児に対して様々な世話行動を展開する五歳児の姿等

(7)危機体験や痛みの感覚によって育つもの 子どもは母子関係の中で、既に危機意識や痛みの感覚の芽生えを、離乳体験や入園による母子分離体験等などを通して体験しています。  成長に伴って、さらに流血、恐怖、孤独などの感覚も体験することになります。危険や危機、挫折に対する予測・予感・予期の感覚、さらにそれらを克服していく耐性や備えの生活体制が確立されていくのも幼児期であります。  庭・道路・床などに落ちている危険物(ガラス片・釘・尖った物・水たまりなど)、汚いもの(ごみ・くず・ほこり・食べかす・動物の死骸や糞など)、さらに水漏れ、垂れ流し、引き摺り等への気づきの感覚も大切に育てていく必要があります。子どもは体験を通して様々な力を獲得していきますが、そのなかで快と不快、或いは苦痛の感覚(特に他人の心の苦痛に対する思いやり)の発等は、もっぱら自分自身の痛みの体験を土台にするものなのです。

(8)物や場の体験を通して生活感覚を育てる  物の配置感覚、バランス感覚、色彩感覚、整理感覚、清潔感等の発達、いわば生活感覚の発達の道筋を明らかにしていくことが大切です。  場の感覚とは、個人と公共の場の違い、座る場、作る場、食べる場、動く場、遊ぶ場、通過する場、入口の場、呼吸する空気の流通する場、家具・教材・教具を置く場等々の感覚は、日常の生活を通して、親や教師の配慮やセンスのなかで育ちます。 高度の精神感覚や反射感覚の基礎づくりの時期が幼児の時代です。例:心地よさ・落ち着きの感覚・・座布団・敷布団・掛け布団・クッション等に座る・寝る・寄りかかる等の、自分の体の姿勢を区別する感覚やそれらを使い分ける感覚能力を育てていくのです。畳文化の感覚・畳の感触・足裏の感覚等・・繊細で鋭敏な文化的精神的感覚の基盤づくりが幼児期に行われるのです。人間的・精神的・人格的生活体制への正常な感覚は、幼児期に養われます。子どもは様々な経験を自分の内部に、精神化することによって溜め込んでいくのです。食事の精神感覚とか、環境についての感覚等の育ちは、例えば「餌やりと食事」の違いを通して子どものものになっていきます。椅子にきちんと座って食べる、屋外でたべる、テーブルに花を飾って食べる、一人で・皆で・部屋をきれいにして、等々のちいさな生活習慣のもつ意味を大切にしたい。例:釘を打つ、水を撒く、バケツを置く、ほうき・塵取りを使う、置く、机や椅子を配置する、机を拭く等々山のようにある日常の生活行動のなかで、例えばドアの位置と他の道具や教具類との配置感覚や、ガラクタや素材を置く、整理する、片付ける等々の諸活動を通してのバランス感覚とか特に「住感覚」の育ち。 釘の長さ・太さ・強さと素材の長さ・厚さ・巾との関係感覚、ノコギリ・カマ・カンナ・シャベル等の道具の使い方、重いものを運ぶ感覚等々の育ちを大切にする。

(9)住む感覚と脅威の感覚 家に住むことや家族と共に生活することを通して、子どもは「安心と落ち着き」安らぎと平安に行き着くことを学びます。そこに「とどまる」という安定した空間の中に、自分が存在するだけではなく、子どもは自分の生活空間をもつこと、そしてしっかりした生活の内容を獲得することによって、自分の存在を掴んでいくのです。居住空間に暖かい人間味を与えることが必要です。居住空間の人間化という課題は、家庭と幼稚園と両者にとっての大切な課題であります。子どもにとって人間的な体験の起こる場所が家庭であり、人間性に向かって開かれている場所が家庭でありまた幼稚園であります。子どもはそこで人間らしく「住むこと」を学ぶのです。心地よさ・快適さ・気楽さ・親密さ・同一化・深い相互関係と暖かい相互応答的な家族の条件が、満たされていることが大切です。そして子どもの生活要求に対応する適当な広さや時に狭さをもち、慈しみの感覚、さりげない整頓、ささいな配慮、よそよそしくない感じの日常性と、そこに住むみんなで生活を作り上げようとする共通の意志と心を共有する感覚が大切なのです。 脅威の感覚とは、美的感覚や装飾性のない、それに色彩感覚や配置感覚さらに定住感覚が欠如した、味気ない砂漠のような、無味乾燥で乱雑な生活空間において子どもがのなかに生まれる感覚です。不潔で、時に異臭の漂うような居住空間、住む感覚の未成熟と無感覚さのなかに子どもが置かれるときに、人間らしく生きるということが、脅威にさらされていくのです。<サン・テクジュベリ著『城塞』より>  ”いかなるわが家も脅かされている、所持するだけで創造しようとせず、怠惰な所持において自己の生の目標を認める人は、家に住むことはできない。”  わが家とかわが保育室というのは、きめ細やかな絶えざる努力と配慮のうちに、到達すべきものであります。絶えず努力して新しく実現し、創造していくべきもの、それが家であり保育室なのです。保育室という限られた狭い空間の壁を越えて、無限に向かい、無限を見る場としての、「住む感覚」が、教師としてクラスづくりに求められる基本的感覚の一つであります。

(10)開放と解放、そして適応について 子どもを解放するとは、その子の脱自己に向かっての解放であり、自分の生の全ての課題を自分のものとして、責任的に自分で引き受けていくことのできる、自己の変容と自己変革に向かって、子どもを解放していくことであります。子どもが自律と自立に向かっていくプロセスは、古い自分から新しい自分への適応のプロセスであり、自分自身の主体性を獲得していくために、新しい自分への適応に向かって、古い自分を解放していく営みであります。人間は自己にとどまろうとする傾向を、自分で断ち切って常に新しい自己を掴みとって行くという姿勢を失ってはならないのです。自己の内側に閉じこもり、自己を外に対して閉鎖する生き方は、退行的、自己完結的、成熟中止的、自己喪失的な生き方であり、現代人に見られる幼稚化現象、または自己の家畜化傾向等と言われます。そうした傾向に対する揺さぶりと呼び出しとしての自己解放と主体性への適応の教育と指導を大切にしたいのです。

(11)存在(BEING)ないし生きるとは 人間とは、BECOMING(生成しつつある)存在なのです。 人間とは、在り続けること、存続していくものであると同時に、絶えず変化し、成長し続ける存在であります。そして生きている「今」において、進行形(being)として「生き続ける」営みのなかで、存在の意味と価値を掴み取っていくのが人間であります。生きている今というのは、人間を超越した無限と人間を押さえ込んでいる有限とが出会うところであり、永遠なる時間と有限な時間とが今、この瞬間において、一つになるところでもあります。この永遠と時間との同一化において、人間は生きる営みを続けているのです。それが「生きる」といことです。人間は、今のこの瞬間を充実して生きることによって、こことあそこ、またはアレとコレ、そして変化と不動、静と動等の流動的な場所と時間を、自由自在に生き、融通無碍に活用して生きることができるのです。それが人間に与えられている自由であります。

(12)人間的指導と非人間的指導の対比 [人間的指導の特質]

 ●人間的な指導の特質は、第一に人の心の暖かさが通じ合う指導ということであります。教師と子どもとが同じ思いと一つの心を共有して生活すること、同情と受容の精神をもって、励まし、慰め、力づけながら、安定したよどみない生活の流れとリズムを生み出していく指導であります。教師と子どもとの同一化の世界が創造され、共同と共感と響存の関係が築かれていく指導であります。  

●総合的・立体的・構造的指導とでも言いましょうか、失敗を恐れず何でもやってみること、その子なりの、その子にしかない、その子だけの発達を支えていく指導であり、適時適所・随時随所に子どもへの信頼を根底として、全人間な発達を総合的、立体的、構造的に支えていく指導であります。

●自由性と柔軟性をもつ指導。子どもの自己選択と自己決定を徹底的に尊重し、子どもの自主的・自立的活動を主軸としながら、子どもと共に、自由と柔軟性をもった指導に徹することが大切なのです。

●人間的指導の特徴は躍動的な指導であり、子どもが自己課題に向かって躍動的に挑戦していくのを、援助する指導であります。

●人間的指導とは、開放性と相互性を大切にする指導です。教師と子どもは応答的な関係にあって、常に晴れやかな気分と伸び伸びとした雰囲気のなかで、生き生きと前向きに、しかも能動的積極的に課題に取り組んでいく指導です。[非人間的指導の特質] ●非人間的指導とは、第一に機械的、無機質的な冷たさを持つ指導です。例えば子どもを見る教師の目が評価の目や品定めの目であったり、その態度や雰囲気が収容所における囚人を監視するような、上から見下ろしているようなものであります。動物飼育的な態度や物を管理するようなやり方は、人間の教育にはふさわしくないのです。

●さらに形式的な指導という特徴があります。出来るか出来ないかとか、まだ無理だからやらせないとか、ここでは必要ない、まだその時期ではないとかと、一方的に決めつけたり、禁止したりする指導です。  

●また、固定的という特徴もあります。悪しき教材主義というか、一方的に与えることしか考えない指導。自分の計画したことを子どもにおろすとか、その通りにさせるとかという、枠はめ型の指導であったり、平面的、非構造的な一斉一律の計画絶対優先型の指導です。  

●一方的に教えてやる、伝えてやる、待ってやる、見ててやるという天下り的、押しつけ的で教師中心型の子どもを服従させる指導も非人間的指導の典型です。  

●同時に言える事は、閉鎖的であることです。我がクラス主義・みんな主義・本時中心主義で画一的な指導です。  

●非人間的指導の最大の特徴は、すべてが教師を中心に展開していく指導です。中心志向的でかつ命令的・指示的・抑圧的・強制的指導によって子どもを教師の支配のもとにおくのです。

(13)関心(INTEREST)について 指導とは子どもへの関心から出発する営みであります。心を子どもに関わらせることから始まるのです。そして子どもの心に関わること、子どもの内面に触れようとすることから、指導が始まります。そのためには教師も自分自身の内面をもつこと、人間と人間的なるものへの深い関心に促されて、自らの内面を見つめ、自分を耕し続ける努力を積み重ねていくことなしに、教師は子どもの前に立ち続けることは出来ないのです。子どもとの内面的な同一化への関心に裏打ちされた指導が求められているのです。そのような関心を喪失するとき、人は心が動かない状態となり、非人間的な状況が始まるのです。子どもとの毎日の関わりに喜びと感動を味わっている教師は、いつも心のときめきを覚え、子どもへの期待と、子どものへの関心にわくわくしながら生活しています。教師と子どもが応答的環境の中で、生活する時に育つものは何でしょうか。日々の生活の中に、心の動く体験、感動体験があり、心や体が躍動し、揺り動かされるような体験があります。心が満たされ、苦労が報われる体験があります。子どもたちからの確かな反応によって応えられていく体験の積み上げがあります。  人間性の開花の場としての保育、乃至教育に関わる者としての、喜びがあり、人間の未来に対する希望が生まれ、人間としての子どもに対する尊敬と畏敬の思いを抱くようになるのです。そして快適さや楽しさ、そして晴れやかさの体験の場としての学校、幼稚園への深い愛着と誇りが生まれるのです。

(14)感覚の衰弱ないし喪失について 現代人の生活のなかで、特に目立つことの一つは、体を動かさないこと、筋肉運動が極端に少ないことであります。手を使わなくても、ボタン一つで何でも操作できる生活の便利さや、足を使わずに車で移動するのが当たり前の生活は、人間から様々な能力を奪いつづけています。おまけに、自然からますます離れていく生活のなかで、筋肉運動を通しての五感による知覚を働かせる機会も失われ、現代人の感覚は衰弱乃至喪失しつつあります。 近年の傾向として、顔の筋肉を動かさない、感情表出が出来ないという人が増えています。様々な外界からの情報についての受容体験が乏しい為に、心の知覚感覚が鈍くなり、喜びや感動を感じる心が失われてしまう傾向です。特に子どもの場合、愛されているとか、守られている、受け入れられているというような、被受容体験の乏しい場合には、打ち捨てられ顧みられなかった体験、淋しく寄るべない自分にとどまり続けた体験、或いは自分に閉じ込められてきた体験として、子どもの心の奥深くに刻印されることになるのです。さらに、小中学校におけるお客さん体験とか、特別視される体験、特別扱いされたりすることによって、自己をそのように見る条件づけ体験の集積による、恐るべき自己解体の危険にさらされていくのです。

●子育ての異変という言葉があります。乳児への「あやし」を知らない親が増えています。子守唄など歌ったことの無い母親が増えているのです。「いないなばあ」や「たかいたかい」など、一切経験が無いのです。そのことは父母との親密体験をもたない子どもが増えていると言うことです。

●汗を流すとか、手足を精一杯に動かして活動するとか、面倒なことに取り組んでじっくり考えたり、時間をかけて努力すること、など全てを嫌う子どもが増えています。

●モラトリアム化(E.エリクソン、小比木啓吾)と言いましょうか、幼稚化現象や家畜化現象の傾向が強まっている時代なのです。

●そうした人間の危機的状況を回復していくための道は、何でしょうか。動くことから始めるしかなりません。筋肉運動を回復することです。手足(特に顔)の筋肉運動や目の運動、視覚機能の回復(ぼんやり何となく見ることから、発見・感動・驚異まで含めて意識的に心を伴って見ることへ)、そして楽しいことに夢中になって打ち込む自己と出会うことです。最後までやりぬく体験の大切さを体で知ることです。

(15)「今・ここで」の感覚・「その都度」の指導への瞬間的決断能力 子どもの指導とは、日々の生活の中で、その瞬間に決断し、直感的に対応していくことが必要です。ぐすぐすしていたり、もたもたしていては、機を逸してしまうのです。そのための感覚能力が必要なのです。具体的にはタイミング感覚といいましょうか、目の前の状況や刺激に、その都度、その場で、直ちに反応する瞬間的な心の動きです。言い換えれば「気働き」というべき感覚能力です。 自己選択的・自己決定的感覚運動を無数に体験していく中で、長い時間と多様な人間関係やさまざまな体験を、くぐり抜けていくなかで、体得していく感覚能力(コモンセンスとか共通感覚とかと言われる力)が求められているのです。「今・此処で・何を・どのように」という瞬間的な判断能力と選択能力、そして決定能力をもつこと、それらの能力と行動能力とを、根源的に統一していくことによって、指導なき指導を教師は体得していくのです。

(16)流動性と仮説性にとどまること(非決定性・非固定性) 子どもの指導を考えるとき、まず何よりも大切なことは、あれこれのことを子どもに教えてやろう、伝えなければ、という構えを教師は捨てるべきなのです。むしろ、子どもに委ねること、任せることを第一に考えるのです。何が子どものなかにあるのか、子どもは何を求めているのか、何が子どもから出てくるか、子どもの側に立つのです。そしてゆったりと子どもの思いや心の揺らぎに任せるのです。子どもに任せるとは、より大いなるものに委ねることに通じています。人間・文化・社会・歴史・民族・国家のすべてを越え、すべてを支えている大いなる力に委ねることです。祈りつつ子どものに委譲する心、子どもに期待しつつ、子どもに臨んでくる大いなる危機に委ねるのです。或いは自然の大いなる意志と力に委ねる、ということです。 そこから、流動性に満ちた子どもと共に創りだしていく世界がひらかれるのです。 どんな偏見にも先入観にも支配されず、何ものによっても固定化されず、自由な仮説性のなかで、子どもと遊ぶ世界が開かれるのです。

(17)委任への献身 教師とは、子どもを委ねられていることへの献身(コミットメント)に生きる者たちです。フレーベルは教師を庭師(ガードナー)にたとえましたが、それは植え、水を注ぐ者としての育てたもう神への献身と、子どもへの献身との同一化を示す言葉であります。共に育てられる者として、枯れ枝を切り焼き捨てる者と、切り取られ焼き捨てられる者の同一化。すなわち、教える者が最も厳しい神の裁きに合うことへの自覚であり、指導する者と指導される者の同一化の世界に生きる教師であることを示唆しています。人間が人間を教育するという、恐るべき営みへの神の招きと人間の応答としての献身であり、その故に使命感と呼ばれるのです。生きることと生かされていること、許すと許されるとの同一化の世界がそこにあります。教師と子どもは共に育つ関係にあります。そして共育から響育へと招かれているのです.共存から響存へと、創造的営みの同労者なのです。 子どもと対立し、向き合うことをやめて、子どもと共に並んで立つ教師であること、子どもと向き合う姿勢からの脱出を、日常的にあらゆる場面で試みる教師であることが求められるのです。

(18)教師の権威・カリスマ性について(尊敬される教師) 子どもは親の所有物ではありません。そして教師は子どもの支配者ではありません。親も教師も、そして子どもも共に神による被造物として、平等の人格として神の前に生かされている存在です。教育とは、子どもを親や教師の良きパートナーとしていくための営みであります。神の創造になるこの世界を、より良い世界に変えていくために、共に働く仲間、兄弟にしていく営みが教育であります。神の家族の一員として兄弟姉妹の関係にある、といっても良いのです。「神は人をご自分の姿に似せて創造された」と言われるように、「イマゴ・デイ」(神の似姿)を分有するための営みが教育なのです。さらに、”このいと小さい者にしたのは私にしたのである”というキリストの言葉によれば、神に仕えることと人に仕えることとは同じ一つのことなのです。神に仕える僕・奴隷として、人は他者に仕えます。教師はキリストに仕える思いをもって子どもに仕えるのです。 同時に神の代理者、神の権威を委ねられている者として教師または親は、子どもを訓練し、鍛える任務と責任を負わされるのです。 愛とは受容であると同時に、厳しい断絶でもあります。 愛するが故に赦さないという厳しさを内にもつのが真の愛であります。それは両刃の剣であり、関係を切り裂くものであり、同時につなぐものでもあるのです。教育的愛は権威をもって子どもと対決することを恐れません。「駄目なことは駄目」という厳しい原則を貫くのが愛であります。そこには神に自らが裁かれつつ裁く者としての教師、親がいます。神への畏れを抱きつつ、恐れおののきながら決着をつける者としての生き方が求められるのです。そのような存在の仕方を選びとる者、それが教師であり、親なのです。そのような生き方のなかに、教師の権威と「カリスマ性」が生まれるのです。子どもに尊敬され、畏怖を感じさせる教師であることが求められます。

(19)分ける感覚(厳しさの中の優しさ・愛の厳しさ) 前項で取り上げたことを、別の角度から分析すれば、教師の価値観の問題であります。何を大切にし何を無視するかという価値観が、教師の日々の指導のあり方を決定していくのです。 いわゆる「見分ける力と感性」の問題です。ツッパリと自己主張の違いを見分けること、安定と不安定、甘えと要求、などなどの見分けと対応の仕方の問題です。教師は聞き分ける力がなければなりません。泣き声を聞いて、それが怪我をしたのか甘えなのか、痛いのか淋しいのか、直感的に聞き分けたり見分けたりする力が必要なのです。 子どもの喜びと悲しみを、痛みといらいらを聞き分けたり、嗅ぎ分ける感性を持ち、直観的対応をしていくのです。そこはかとなく臭うもの、なんとなく漂うものへの鋭い感度をもつのです。的確な判断や即時の測定によって、子どもへの応答を行ったり、子どもの問いや求めに応えて、妥協や許しを与えたり、時には子どもに寄り添い、同情といたわりをもって、絶対に見捨てぬことを分からせたり、厳しく断固として毅然たる態度を示したり、と千変万化の対応をしながらも厳然とした価値観をつらぬいていく姿勢が大切なのです。分けあう感覚、同じ心・同じ思いを分け合うこと、一つの心・同一化・同じ立場に立つことが教師の基本的姿勢なのです。

(20)「間」(はざま)の感覚 自己の投げ入れと留保・絶対化と相対化・夢中と冷静・本当と嘘・真剣と遊び・真面目と余裕の同一化の世界に生きるのが教師である。「間」の中で、必死に生きる・楽しむ・打ち込むこと。嘘・偽り・いい加減・騙し・はぐらかし・まやかし・見せかけのない生活。「今を」かけがえのない・唯一の・ただ一回の・不回帰性のものとして生きる。永遠における今、「間」における「今」に生きる感覚を磨くこと。

(21)通過の感覚 通過するものとしての自己・家・両親・教師・・・文化・歴史、さらに上を見る・仰ぐ・向く、自己変革への意志をもちつづける教師であること。自己の内に、現前するものを通過し、突き抜け続けていくこと。自己の底を突き抜け、破り、通過して、自己を獲得し続ける態度。到達すべきもの、実現し創造すべきものとしての自己、そして保育。

(22)日常生活の中の「あぁ、そうか」体験 洗顔の後、手と顔のどちらを先に拭くか・後から使う人のために・お尻の拭き方・髪をとかす・手足の洗い方・清潔感と不潔感・もぎ取る・もぐ・摘み取る・つまむ・浸す・口に含む・うがい・察する・言葉の使い方・声の出し方・目のやり場・耳の使い方、顔の動き・態度・姿勢・片付ける・しぐさ・身のこなし・物の持ち方・渡し方・観察・状況の察知・予測の仕方・挨拶の仕方・返礼の方法・道具の使い方・物の配置・配色・料理の方法・食事のマナー・運動機能(なわとび・自転車・ボール投げ 等々)・恐怖感・幸福感・悲哀・喜怒哀楽 等々、日常生活のささいなことの中で、体得されていく感覚の大切さ。

5.まとめ -残された課題-


●指導における臨界距離の問題について  ・動物の「なわばり」行動と人間の社会的行動の類似性/外からの驚異に対する反応  生物としての必然/防衛本能/防衛範囲・防衛能力を超えること/等の問題。

●逃亡・自己閉鎖  ・自己喪失体験の集積/自己解体と自己崩壊の危機にある子どもたちへの援助について  ・身体的・物理的・感覚知覚的・心理的・精神的・感性的・人格的なもろもろの抑圧のもたらす非人間化の危機から子どもたちを救い出すために。  ・受動・依存・攻撃・拒否・否定・無気力・無反応・無意識・無関心・無作法・無目的・無表情・無常識・無責任・無自覚・無自己・無抵抗・無批判・無能力・無学力・無教養・無節制・無定見・無思想(20無主義)等の克服の問題。

 ●「子どもとは何か」から「子どもとは誰かへ」。

 ●三つの知識  ・知らねばならない知識/縁のない知識/知りえない知識

 ●自然体の指導/自然体を自らのうちに創造する教師であるために。 幼児の指導に関して若干の私論を試みた。明治以来のわが国の文化対策、特に教育政策は多くの矛盾をはらみ、人間の教育に関する基本的諸条件を確立せぬまま現在にいたっている。人間が人間として育つための根本的な諸条件が損なわれ、もしくは無視され、否定され続けた100年という年月の持つ計り知れない重さを、自分自身のこととして背負い、引き受ける以外に道はないように思われる。

1988年8月