はじめに
幼稚園というところは、遊びを中心とした生活を通して、子どもの成長と発達を保障するために存在する教育の場であります。この章では、子どもの遊びにどんな意味があり、どんな価値があるのか。また子どもが遊んでいる姿の中に、何が起こっているのか、子どもの遊びが人間としての発達と、どのような関係にあるのか、という様な視点から、子どもの遊びと認識の発達との関係について、できるだけ子どもの実際の姿を通して明らかにしてみたいと思います。
1. 遊びと自我の発達
(1)忘我体験と自由体験のもつ意味について めばえ幼稚園の子どもたちは、実によく遊びます。遊んで遊んで遊びほうけているのが、わが園の子どもたちです。子どもは楽しい遊びに夢中になります。子どもが遊びに熱中して夢中になるという体験は、どんな意味があるのでしょう。私たちは子どもが、自分の大好きな遊びのなかで、時間を忘れ、自分を忘れる程のめり込むという体験は、子どもにとって完全な意味における自我体験だと思っています。忘我体験というのは、完全な形における身体自我の体験であり、また自己開放体験でもあります。子どもが幼稚園や家庭での生活において、自分ひとりで、或いは仲間と、時には家族と一緒に経験する、楽しさの中で夢中になるという忘我体験は、完全に自分自身に関わる体験であると同時に、完全に自己を開放する自由体験でもあります。 少し理屈っぽくなりますが、お許しください。人間というのは、最も深く、最も真実に自己と関わることができるときに、それまでの古い自己を突き破り、突破して、自己を抜け出して、新しい自己をつかんでいくために、飛躍していくことができるのです。 人間が主体性をもつとか、自主性を発揮するとかというのは、単に自分自身であること、或いは自分自身にとどまっていることではありません。真の主体性とは、真に自分自身と関わることを通して、自分を突破し、自分自身に対する自由を獲得していくことによって、初めて自分のものになっていくものなのです。古い自己から抜け出し新しい自己をつかむということ、古いこれまでの自分を捨てて、新しい別の自分をつかむということ、それは、すなわち自分を客観的に見つめていく、自分自身への「まなざし」を獲得していくことが、主体性の確立に欠くことのできない条件であります。 無我夢中になって遊ぶという忘我体験の中から、子どもがふと我に返る瞬間において、そのような自己発見の体験が、子どものものになっていくのではないでしょうか。自分自身の主人公になっている自分を発見していくという、感動的な体験がそこにあります。あるいは、夢中になっている自分自身に気づき、その心地よい快感や、身震いするような躍動感、その喜びに身をゆだねていく時間体験の中で、子どもは自分自身の内に新しい意欲や能動性と力動感(ダイナミズム)に満ちた自分を発見し、つかみ取っていくのだと思うのです。そのような生命の躍動と力動感に満ちた時間体験・自我体験・自己発見の体験、さらには自己を自己の「まなざし」の対象としていくことができる、遊び体験の豊かな量と質が、子どもの人格発達と、子どもの今と未来における人間としての育ちに、決定的に重要な意味と価値をもつことを認識しなければならないと思うのです。
(2)忘我体験と主体感覚・人格発達の基本的循環性について 忘我体験は自己開放体験であり、自己の相対化による新しい自己発見と自己獲得の体験であると同時に、じつに豊かな自由体験であり、子どもの自由感覚と主体感覚とを育てていくために、欠かすことの出来ない貴重な「体験の場」であります。そのような視点から子どもの遊びを見つめるとき、夢中になって遊んでいる子どものなかに、人間の人格発達に関する重要な「循環性の法則」が働いていることが明らかになります。遊び→忘我体験→自己開放→自由感覚→主体感覚→自己発見→自己相対化→自己突破→自己獲得→責任的人格主体の確立→遊び、という発達のための循環作用を通して、子どもは人間としての全面的発達を遂げていくのであり、また幼児期に必要なさまざまな文化に開かれ、社会的文化的な諸能力を獲得していくための土台が形成されていくのであります。この人格発達のための基本的な循環作用が、子どもの生活のなかで、十分に機能するためには、何よりもまず、子ども自身の内部に、自分自身と環境世界に対する確かな信頼感や安定感、現在と未来の生活に対する確信・意欲・能動性・積極性といった、人間発達のための基礎、基本となる「生への態度」が確立していかなければならないのです。そのような基盤がなければ、教育という営みは基本的に成立しないのであります。 以上、少しくどい程申し上げましたが、人格発達の基本的循環性の体験を、十分に経験しないまま、幼少年期を通過してしまうことによって、子どもの内面に刻み込まれる、人間的危機の「芽」というか、望ましい発達を阻害する「要因」については、改めて言うまでもありません。それは、幼児期以降の少年・青年期に見られる、意欲の欠如、主体性確立の決定的欠落、自由感覚や責任感覚の未発達、そして最終的には人間的なるものの喪失という恐るべき事態に必然的につながるものなのであります。ノーベル賞受賞学者のC.ローレンツが指摘したような、現代人の特徴としての、幼稚化現象をはじめ、人間的に生きようとする基本的欲求や情動性・情緒性の欠損と障害状況、能動性や自主性の欠落、いわゆる人間としての成熟をあきらめる傾向の一般化という恐るべき結果を生み出すことになるのです。
(3)自己抑制と責任的・社会的な態度の発達について 人間が自分自身に対して、また様々な事柄や状況に対して、真に自由であり主体的でありうるためには、自分自身にとらわれない自由な自己であることがその前提条件となります。遊びに熱中し没頭していく前の自分と、遊びのなかで夢中になっている自分、さらに遊びの中での、様々な仲間や出来事との出会いを通して変容していく自分がいます。子どもは遊びの中で、古い自分を脱ぎ捨てて、新しい自分をつかんでいくのです。そのためには、自分自身を自分の前方に投げ出していく決断と勇気が必要です。そのような自己の投げ出しが、子どもの忘我体験なのです。自分を新しい出会いにむかって「投げ出す」という、人間的・決断的行為は既に単なる「忘我」ではなく、自己における意図的・決断的・意志的な自己の「投げ出し」であり、自己抑制や自己否定によって、新しい自己を獲得するために「自分を捨て、自分を開いていく」という、真に人間的・人格的な行為への「よびだし」ではないでしょうか。遊びをとおして獲得されていく、より高い精神性への飛躍によって、このような主体的人格性への自己開放が子どもに可能となるのです。遊びにおいて、子どもは確かな人格的発達を遂げています。豊かな遊び体験をもつ子どもは、実に見事に自分自身を抑え、自分の要求を後回しにして、仲間との活動を優先させる、というような社会的態度を示すような育ちを示します。今は仲間と関わってこれこれのことをやり、その後で自分の遊びをやろう、というような、主体的・社会的な判断をする子どもに成長していきます。そのような自分の生活の内容を自己選択し、自己決定していく力は、もっぱら遊びに熱中し、集中し、夢中になって、我を忘れる体験が、豊かに積み上げられてきた生活があってこそ育つ力なのです。遊びに集中し熱中する生活の中に、子ども一人ひとりの個の確立があります。遊びの中で子どもは自分の世界をつかみ、自分自身をつかんでいると同時に、人間的・文化的・社会的・歴史的な、あらゆる可能性にむかって、自分を開いていく子どもがいるのです。人間としての豊かな可能性にむかって、「開かれた未決の存在」としての子どもがいるのです。遊びにおける自己抑制というのは、自分の課題と集団の課題とを、矛盾なく統一的に捉えることのできる、いわば自己教育力を獲得した子どもにしてはじめて可能なことなのです。自己課題と社会的課題との間との緊張関係に自分をおきながら、社会的要請に呼応していく人格的責任主体としての「生きざま」を獲得した子どもが、豊かな遊び体験を通して育つのです。
2. 経験と認識との関係
参考文献[1] <マイケル・ボラニー著
『暗黙知の次元』紀伊国屋刊をめぐって>
(1)暗黙の力と内に感じる力について
”我々は語ることができるより、より多くのことを知ることができる”(p.15)
”ゲシュタルト心理学によれば、対象の外見的特徴が認知されるのは、網膜や脳に刷り込まれた要素的な諸細目が、互いにおのずと均衡のとれた状態に達することによると考えられている。しかし私はそれとは反対に・・我々が知識を探求するときに、経験を能動的に形成する活動の結果として成立すると考えている。人間が知識を発見し、また発見した知識を真実であると認めるのは、全て経験をこのように能動的に形成、あるいは統合することによって可能となる。・・この能動的形成、あるいは統合こそが、知識の成立にとって欠くことのできぬ偉大な暗黙的な力である。”(p.18)
”知覚はゲシュタルト心理学において関心の中心をなしていたが、いまや知覚は最も貧弱な形成の暗黙知と見られることになる。”(p.19)
”暗黙的な思考はすべての知識の不可欠の部分をなしている”(p.38)
”内感・・という精神の力・・暗黙的な予知”(p.42)
”人間や芸術作品の理解に適用された注目すべき暗黙知の一形式・・潜入・・人間の心を理解することは、その働きを体験することによってのみ可能であり、美学的鑑賞とは作品の中に入り、作者の心の中に潜入することである。”(p.34)
”諸細目を知ることによって事物についての真の観念が得られる、と考えることは根本的に誤った信仰なのである。”(p.37)
”包括的存在の諸細目を細かに調べるならば、意味は消失し、包括的存在の観念は破壊される。”(p.36)
”諸細目の内面化による・・回復・・暗黙的な再統合”(p.36)
”一切の暗黙知を排除した上で全ての知識を形式化する過程は、自己崩壊に陥る”(p.39)
以上、長々と引用しましたが、私たちはこれまで子どもの内面に育ちつつある様々な能力について、あまりにも無知であり、無感覚であったのではないか、という反省をこめてこれまでの児童心理学やそれに基づく指導法の見直しをしていく視点を探すために、マイケル・ボラニ-の言葉を借りました。 暗黙知とか、内感とか予知とかという心の働きは、私たち大人よりも幼児のほうが、はるかに深く鋭いものを持っているのではないでしょうか。ボラニ-はそのことを私たちに示唆しています。 ただ、現在のところ心理学は子どもの心の内奥について、余りにも知らなすぎるのです。私たちは経験から子どもの発達についての、深い謎に迫っていくしか、今のところ方法がないのです。過去五十年子どもと共に生きてきた、その実感から私は子どもの発達の秘密に迫っていきたいのです。
(2)自己意識の拡大と自由な自己開放について 人間にとって自分自身とは”開かれた未決の問い”(プレスナー)として、実に極め難いものであります。開かれ、未決である、という問いは、どのように子どもの生活のなかで現実となってくるのでしょうか。「開かれる」とは、一体どのようなことなのでしょうか。 幼稚園に入園したばかりの子どもは、心も体もコチコチに緊張して固くなっています。言葉も出ないほどの緊張ぶりで、もちろん体を自由に動かすこともできません。 そういう子どもが、少しずつ園生活に安定してくるに従って、緊張を解いてきます。そして心と体を開いてくるのです。「自己を開く」ということは、自己が自己を破り開くことであります。そして新しい可能性に向かって自己を投げ出し、開いていくことです。入園直後の子どもはそれをやってのけるのです。自由な自己開放への突破口を、子どもはどのように見つけるのでしょうか。あるいは自分を閉じ込めていた緊張感から、子どもはどのようにして自由になっていくのでしょうか。 自分の世界をつかみとっていくために、閉鎖性を解除し、また自分を開放していく力を子どもはどのように自分のものにしていくのでしょうか。「自己を開く」とは、自分の殻を破って、外へ出て行くことであり、新しい可能性に向かって自分を投げ出しいていくことであります。自分を開くというのは、自分とは異質なものを自分と結び合わせ、融合させていくことであり、また自分を異質なもの、新しい自分に変革していく営みであります。自分の今いる場所を絶対化してしまい、閉鎖性の中に留まっていたいという、根強い願いをもつ子どもは、入園後も相当長い期間、ぐずったり、泣き続けたり、動こうとしなかったりという姿を示します。しかし、間もなく、そして例外なく子どもは、自分からそのような傾向を突破して、自分の相対化と開放によって、自分の主体的な生活の仕方をつかんでいきます。自分のあり方や居場所を絶対化して、そこに留まり続けようとする思いを放棄していくこと、自分の閉鎖性を解除していくことによって、子どもは自由を手に入れるのです。幼児の場合、4,5才児よりも3才児のほうが、はるかに早く新しい環境に適応していくものです。それは、幼いほうが、生まれてからそれまでの間の環境からの影響によって、子どもの心情や感性が「損なわれる」ことが少ないからだと思われます。3才児のほうがはるかに自由で開かれた心を持っているのです。彼らは自由な試行錯誤や探索行動によって、いち早く園に慣れてしまうのです。 子どもは自由で、豊かな遊び体験を保障される生活のなかで、体験的に開放性とか、無限定性(相対性・とらわれない心)を自分のなかにとりこんでいくことができるのです。自己の相対化とか無限定性とかということは、自分の中の自己閉鎖的な世界像を打ち破ることによって、初めて可能になることです。そして自分の前に現れてくる様々な物事や事柄について、先入観などによる判断をしたり、固定化された視点を放棄することであります。そのことについては、子どもは正に天才なのです。必要な条件さえ整っていれば、子どもというのは実に自由に、そして柔軟な考え方や発想にむかって、自分自身を解放していくことができる、柔らかい感性の持ち主なのです。
(3)関係の世界へ そのような自由でとらわれない生活のなかから、子どもは「関係」の世界に、自分を開いていくのです。人間が「社会的存在として「関係の世界」に旅立っていく原点がそこにあります。人と人、人と物、そして人とことの間に、関係が生まれ、対話が成り立っていくのです。 そのことは同時に人間としての、「正常な現実性」の獲得であります。人間にとって正常なあり方とは、自分のなかで出来上がってしまい、完結している固定的な世界に生きるのではなく、「関係の世界」において、「関係-内-存在」として生きること、また自分と自分、自分と他者との「応答的-存在」として生きるとき、人は真に人間的な自由を生きることができるのではないでしょうか。 そのようなあり方と生き方こそ、人間にふさわしい正常な現実的生き方であります。 以上、細々と述べてきましたが、人間にふさわしいあり方とは、ひとりよがりの自己閉鎖的世界を、克服し乗り越えて、関係の世界に生きることによって、実現できるのだということであります。教師と子どもとの関わりのなかから生まれてくる心の同一化の世界、子どもと子どもとの関わりのなかからめばえてくる深い共感と仲間意識の世界、そこには主観(わたし)と客観(あなた)の境目が流動的になり、主観と客観の自由な入れ換えが起こるというような、生の柔構造があります。 「きょうね/えいこちゃんたら/べそかいちゃったの/そしたらね/わたしもね/なきたくなっちゃったの/だってさ/えいこちゃんのほうから/くうきがながれてきてね/それで/かなしくなっちゃったの」(ねえ、おはなしきいて・幼児のつぶやき集・全日私幼連編) 悲しい空気を共有して、友だちと一緒に涙を流した、わが園の5才児女子の口頭詩です。 友だちの痛みや悲しみを、自分のこととして共有する心には、自分と他人という区別はなくなって、共に自分の悲しみとなっているのです。実に柔らかい感性であります。 人が豊かに生きるというのは、このような柔らかい「生の柔構造」のなかにおいてなのです。 関係の世界に乗り出すことによって、人間は新しい「生の地平」を掴むことになるのです。 子どもは、仲間との出会いを通して、新しい自分との出会いを体験していきます。自分と異質なものとの出会いを、自由にその都度の具体的状況に合わせて選択し、決定していく「開かれた」自分へのまなざしを獲得していくことこそ、人間が真に人間であることにふさわしい在り方であると考えます。
(4)子どもの遊びとは、試行錯誤と探索行動の同一化、開放性と自由性の統一、無限定性と流動性の統一、自己意識の拡大とは、自己の可能性の拡大であり、そこには新しい自己に向かって自己を変革していく営みと同時に、異質なものを自己の内に融合していく営みと、二つの方向において自己を拡大・拡張していくのである。自己開放とは、自己をその都度の具体的状況への人格的・全人間的応答において規定しながらも、決して固定的・絶対的には自己を規定しないまま保留し、自己および他への自由性と開放性にとどまり続けることである。 人間は、現実的な関係を遂行し関係において生きるとき、常に古い自己から新しい自己への変革と、自己を貫徹する方向にむかって自己を突破していくような生き方を掴んでいくのである。
3. 理解・認識・人間化
参考文献[2]<F. キュンメル著
『現代解釈学入門』をめぐって>
(1)出会いと自己突破について
”外からの刺激や衝動が、流動的な内的生の躍動における内からの創造的応答とぶつかる・・・”(p.27)
”出会いにおいて自己の外へ踏み出すことによってのみ、変革されつつある自己自身へと立ち返りうる・・・”(p.27)
古い自己を突破して新しい自己に到達するための自己による自己自身への自己突破は、
”外からの衝撃や何らかの堅い現実なしには「起こりえない」”(p.29)
と同時に、
”人間自身の内に内的な根拠‥‥‥感受性や理解力という内的通路が、その人間の内になければ、全く不可能である。”(p.52)
というような、一方的・一面的見方を越え、
”その都度出くわし、呼びかけてくる現実に対し開かれたあり方をとらせること・・・完結することなく、どこまでも開かれたものとして・・・あらゆる現実をありのままにあらしめ、ありのままに出会えるようにせしめる客観的態度”(p.62)
という根源的な性格が必要なのである。このようにして、開かれた自己を獲得するとは、自己を自己自身が自己突破していくことによって獲得されていくのである。
(2)前理解について 開かれた未決の問いは、
”漠然としたものであれ、それ自身既に何かを見ている。”(p.70)
”前理解が”理解に先立つものとして前に置かれる(前提される)・・・”(p.71)
”持ち合わせの知識と・・・事柄への前もって生きた生の関連”(p.71)
とが前提となって、
”通路を切り開いていく働きにおいて開示の力を展開し、自己を越え出ていくよう指示する・・・なぜならそれは、ただ現実そのものに則してのみ活性化し、具現化し、充実しうる・・・”(p.67)
”二重の前理解を二つに分けて考えることが本質的に重要であろう”(p.71)
”・・・先行的という意味での前は・・・既に知っている、という意味と、先取り的に(含蓄的に)捉える、という意味である。・・・一方において過去の地平を指し・・・既に得た知識、ある特定の文化的伝統の中で習得した行動や思惟の様式、話し方や見方など。それは、私が現在の状況に対応するのを助け、生活連関における持続性を未来に向かって保ってくれる。”(p.74)
過去の体験が現在を支え、さらに未来を志向せしめる基盤であり、現在における豊かな体験が過去の体験のもつ様々な意味や価値を再構成し、それに新しい生命を与えながら今を充実・充満させ、さらに未来にむかって、より豊かな自己の可能性を切り開いていくのである。
(3)過去・現在と未来の関係 -「今」を生きるとは- 人間にとって現実とは、今をどのように生きるかという課題をもって自己の前におかれているものである。 そして、現実とはその都度の状況において自己のものになっていく。どのように状況に対応していくかによって、人間は自己の「今」を獲得していくのであるが、その都度の状況がもつ課題に対して、
”開かれた彼自身を常に繰り返し破り開く状況の中に生きて”(p.75)
いく者でなければならない。”状況の開かれた性格に対応”するためには、
”これまでの状況から、経験や知識として携えてきたものだけに頼ることができない”(p.75)
からである。そこで、未来の先取り的、ないし予覚的把握、あるいは先行的把握が必要となる。
”一つの事柄を先行的に内から捉え、その意味を先取りすることによってのみ、それを外的な様相においても理解しうるのである。”(p.75)
内的な直観的理解や繰り返しの模倣行動を通して、行動様式的(パターン・モデル)・体験的に事柄を理解していく生活・生活体制の重要性を確認したい。
”未来と共に、人は現在と過去を越え出ており、まさにそれ故にそれ自身開かれた、未来をはらんだ可能性としての過去に帰らねばならない‥‥‥過去は未来によって常に新しく異なった風に目覚まされ、形作られるが、それと同じだけ過去は自己の内から未来を産み出していくのである。”(p.78)
遊びの崩壊や挫折体験のもつ意味は、明瞭な自覚なしに見ていることとしての見ることから、新たな気づき-驚きながら発見することとしての見ること、すなわち創造的出来事への突破の可能性を開いていくための機会となるのである。
(4)予感について 予感は、未来に自己を開く人間にとって、
”未来を現実化していく一つの力”である。また、”先取り的前理解も・・・人間の内に理解を根源的に目ざます力”(p.81)
である。
”産まれつつある状態・・・創造の胚種において先取り的に把握しようとする・・・胚種は外から与えられながら、今や私自身の内においても生き生きとし・・・私の内から成長する。”(p.81)
”感覚は、何かを理解する折、それを胚種として自己の内に受け取り、それを養い、花や実になるまで成長させることによって理解する”(シュレーゲル:1772~1829 ドイツ ロマン派文学者) ”本質的な洞察・・・全体において直接的に生き生きと働くものがなければならない。”(p.82)
理論や言語化の営みを支えているのは、生命的・力動的な「あるもの」であり、
”生き生きとした生命感にあふれる体験を基盤として、作用力をもった胚種が吹き込まれる”ことによって、”内から成長し・・・彼を変革する力をもつ”(p.82)
ことになるのである。かくして、次のような連関が明らかになってくる。前理解→先取り的理解→自己への立ち返り・人格化→自己変革→人間化
”体験は理解の窓口であり、理解とは生命の核心、源泉である心情の働きを揺り動かす。心情は人間と世界との接点であり、内的生命と外的世界とに向かって開かれた窓である。人間の発達とは、自己の現実の理解を通して自己を自己の最内奥に導いていく営みである。”(p.84)
(5)成長への「ゆさぶり」について 子どもの試行錯誤体験のもつ意味・・・それは自己変革と自己突破のための
”ゆさぶられる体験”(p.87)
である。”自己を貫徹し・・・危機的であって同時に解放をもたらす突破・・・その前には、問い悩む動揺の時期・・・突破の後には・・・成長展開する段階が・・・新しいものを産みだしていくものとして続けられていく。” ”突破への衝撃や刺戟は・・・出会いによって、しかもただ内からのみ可能な理解としてその人間を捉え、変革することによって、理解の内的根底を目覚まさせ、形成する・・・”(p.89)
ここに教育の役割が明らかになる。教育とは自己を自己のもとに留まらせないための営みである、と同時に
”人間は、真に自己自身と関わりうる時に、自己から自由になり、自己から抜け出す・・・完全な人間とは、まさに自己を忘れた人間である。”(p.91)
4. 主体性と教育
参考文献[3]<田浦 武雄著
『新版教育哲学原理』川島書店刊をめぐって>
”主体的に自己の人生を選択できるように生徒が成長すること”(p.171)
”芸術として位置づけられる自己創造的経験領域・・・の学習は有効で・・・子どもたちが自身の世界で自ら見るものの確かな表現であり、彼ら固有のものである。”(p.172)
”生徒たちが求め、選択し、我がものにする経験・・・主体的活動が強制された活動に比べて質の高い学習を可能にする・・・”(p.173)
”教師による教授が不必要な生徒を育成すること・・・自己からはなれて立つ人間を育むこと・・・そのために教師は、自由な環境を創造する必要がある。”(p.174)
”教師は自分に忠実で・・・本心をだして子どもと対立し・・・異質で・・・甘やかしてくれない主体とぶつかることによって・・・自分が何であるかが考えられ、主体性が成り立つ。”(p.176)
5. まとめ
子どもの教育とは、あれこれの知識や技術・技能を、子どもに「授ける」ことによって子どもを「育てる」こととされてきた。知識・技能の伝達は教育における重大な課題であることは言うまでもないが、現代における教育の荒廃の主たる原因は、子どもの自己教育力・自己選択力・自己決定力を軽んじてきた結果と言っても過言ではなかろう。生活と時間の問題についていえば、人間は時間の中に投げ込まれて生きる存在であり、 さらに時間を主体的に生きる時、最も人間的でありうる存在である。命令と指示・強制の中での時間とは、いわば死んだ時間であり、動きのない時間・静止した時間・他人の時間ではないだろうか。人間にとって、そのような否定的・非人間的時間体験とはどのような意味をもつのであろうか。時間を止めたい・こんな時間は速く過ぎ去ればいい・できればこんな時間はないほうがいい、という時間。それは耐えがたい苦痛の体験であり、無論体験しないほうが望ましいが、人はそのような体験から逃げ出すことはできない。幼い子どもが、日常的にそのような状況におかれていると、多かれ少なかれ精神や感情に異常を来すことは当然のことであり、子どもが時間の逆行や停止を願うような、非生産的・非人間的な時間体験をさせてはならないのである。子どもにとっての時間と空間は、限りない可能性を含んだ力動的・感動的かつ、生命感にあふれる実体験と原体験の「場」でなければならない。そして、絶えず流動し、充実し、充満し、溢れだし、炸裂しながら、新しい自己に向かって覚醒し、よびだされていく喜びを体験していく「時間」であり「場」でなければならない。 教育の現場において我々は、教育と哲学、現象学ないし人間学、人類学との協同の必要性を痛感している。ヨーロッパの国々においては、それら諸学問間の学術的な研究体制が確立され、教育の現場と学者との共同研究が日常的に行われているが、わが国ではこれからの課題として残されていることを確認したい。近代的な自我の確立をめざしてきたプロセスの中で、最近の現象学や解釈学、あるいは科学哲学の分野における人間研究の成果は、再び主観と客観との流動的・生命的ないし力動的な統一を目指す方向にむかいつつあると思われる。人間という類いまれにして、霊妙な存在が、その生命の計り知れない豊かさに満ちあふれたあらゆる営みを、どのようにして完遂していくのか。人間一人ひとりの限りない可能性を、どのようにして実現していくのか。この課題は、我々の永遠の課題ではあるまいか。人間とは、人間にとって最後まで「問い」そのものなのである。
しかしながらそれは「開かれた未知の問い」として、人間が人間でありうる限り、そしてその問いに誠実であるかぎり、とどまることなく我々をはるか彼方に導き続ける、実り豊かな問いであり、課題である。
参考文献[4] <ランゲフェルド 『よるべなき両親』 玉大出版部刊>
”人間を創造的な課題として積極的に生きていくこと”(p.64)
そのために、
”可能な限り創造的な活動の機会を与えるような教育と教育者が必要なのである。”(p.69)
参考文献[5] <ティヤール・ド・シャルダン 『現象としての人間』 みすず書房刊>
”なぜ我々のまなざしが人間というものに特にむけられるのであろうか”
”見ること、生のすべてはここにある・・・生の本質”
”意識の高まり、言いかえるなら見る力の増大・・・生命の世界の歴史とは、宇宙の中をいっそう深く見通す力が、ますます研ぎ澄まされて完成されていく眼の形成史といえる・・・”
1986年4月
はじめに
幼稚園というところは、遊びを中心とした生活を通して、子どもの成長と発達を保障するために存在する教育の場であります。この章では、子どもの遊びにどんな意味があり、どんな価値があるのか。また子どもが遊んでいる姿の中に、何が起こっているのか、子どもの遊びが人間としての発達と、どのような関係にあるのか、という様な視点から、子どもの遊びと認識の発達との関係について、できるだけ子どもの実際の姿を通して明らかにしてみたいと思います。
1. 遊びと自我の発達
(1)忘我体験と自由体験のもつ意味について めばえ幼稚園の子どもたちは、実によく遊びます。遊んで遊んで遊びほうけているのが、わが園の子どもたちです。子どもは楽しい遊びに夢中になります。子どもが遊びに熱中して夢中になるという体験は、どんな意味があるのでしょう。私たちは子どもが、自分の大好きな遊びのなかで、時間を忘れ、自分を忘れる程のめり込むという体験は、子どもにとって完全な意味における自我体験だと思っています。忘我体験というのは、完全な形における身体自我の体験であり、また自己開放体験でもあります。子どもが幼稚園や家庭での生活において、自分ひとりで、或いは仲間と、時には家族と一緒に経験する、楽しさの中で夢中になるという忘我体験は、完全に自分自身に関わる体験であると同時に、完全に自己を開放する自由体験でもあります。 少し理屈っぽくなりますが、お許しください。人間というのは、最も深く、最も真実に自己と関わることができるときに、それまでの古い自己を突き破り、突破して、自己を抜け出して、新しい自己をつかんでいくために、飛躍していくことができるのです。 人間が主体性をもつとか、自主性を発揮するとかというのは、単に自分自身であること、或いは自分自身にとどまっていることではありません。真の主体性とは、真に自分自身と関わることを通して、自分を突破し、自分自身に対する自由を獲得していくことによって、初めて自分のものになっていくものなのです。古い自己から抜け出し新しい自己をつかむということ、古いこれまでの自分を捨てて、新しい別の自分をつかむということ、それは、すなわち自分を客観的に見つめていく、自分自身への「まなざし」を獲得していくことが、主体性の確立に欠くことのできない条件であります。 無我夢中になって遊ぶという忘我体験の中から、子どもがふと我に返る瞬間において、そのような自己発見の体験が、子どものものになっていくのではないでしょうか。自分自身の主人公になっている自分を発見していくという、感動的な体験がそこにあります。あるいは、夢中になっている自分自身に気づき、その心地よい快感や、身震いするような躍動感、その喜びに身をゆだねていく時間体験の中で、子どもは自分自身の内に新しい意欲や能動性と力動感(ダイナミズム)に満ちた自分を発見し、つかみ取っていくのだと思うのです。そのような生命の躍動と力動感に満ちた時間体験・自我体験・自己発見の体験、さらには自己を自己の「まなざし」の対象としていくことができる、遊び体験の豊かな量と質が、子どもの人格発達と、子どもの今と未来における人間としての育ちに、決定的に重要な意味と価値をもつことを認識しなければならないと思うのです。
(2)忘我体験と主体感覚・人格発達の基本的循環性について 忘我体験は自己開放体験であり、自己の相対化による新しい自己発見と自己獲得の体験であると同時に、じつに豊かな自由体験であり、子どもの自由感覚と主体感覚とを育てていくために、欠かすことの出来ない貴重な「体験の場」であります。そのような視点から子どもの遊びを見つめるとき、夢中になって遊んでいる子どものなかに、人間の人格発達に関する重要な「循環性の法則」が働いていることが明らかになります。遊び→忘我体験→自己開放→自由感覚→主体感覚→自己発見→自己相対化→自己突破→自己獲得→責任的人格主体の確立→遊び、という発達のための循環作用を通して、子どもは人間としての全面的発達を遂げていくのであり、また幼児期に必要なさまざまな文化に開かれ、社会的文化的な諸能力を獲得していくための土台が形成されていくのであります。この人格発達のための基本的な循環作用が、子どもの生活のなかで、十分に機能するためには、何よりもまず、子ども自身の内部に、自分自身と環境世界に対する確かな信頼感や安定感、現在と未来の生活に対する確信・意欲・能動性・積極性といった、人間発達のための基礎、基本となる「生への態度」が確立していかなければならないのです。そのような基盤がなければ、教育という営みは基本的に成立しないのであります。 以上、少しくどい程申し上げましたが、人格発達の基本的循環性の体験を、十分に経験しないまま、幼少年期を通過してしまうことによって、子どもの内面に刻み込まれる、人間的危機の「芽」というか、望ましい発達を阻害する「要因」については、改めて言うまでもありません。それは、幼児期以降の少年・青年期に見られる、意欲の欠如、主体性確立の決定的欠落、自由感覚や責任感覚の未発達、そして最終的には人間的なるものの喪失という恐るべき事態に必然的につながるものなのであります。ノーベル賞受賞学者のC.ローレンツが指摘したような、現代人の特徴としての、幼稚化現象をはじめ、人間的に生きようとする基本的欲求や情動性・情緒性の欠損と障害状況、能動性や自主性の欠落、いわゆる人間としての成熟をあきらめる傾向の一般化という恐るべき結果を生み出すことになるのです。
(3)自己抑制と責任的・社会的な態度の発達について 人間が自分自身に対して、また様々な事柄や状況に対して、真に自由であり主体的でありうるためには、自分自身にとらわれない自由な自己であることがその前提条件となります。遊びに熱中し没頭していく前の自分と、遊びのなかで夢中になっている自分、さらに遊びの中での、様々な仲間や出来事との出会いを通して変容していく自分がいます。子どもは遊びの中で、古い自分を脱ぎ捨てて、新しい自分をつかんでいくのです。そのためには、自分自身を自分の前方に投げ出していく決断と勇気が必要です。そのような自己の投げ出しが、子どもの忘我体験なのです。自分を新しい出会いにむかって「投げ出す」という、人間的・決断的行為は既に単なる「忘我」ではなく、自己における意図的・決断的・意志的な自己の「投げ出し」であり、自己抑制や自己否定によって、新しい自己を獲得するために「自分を捨て、自分を開いていく」という、真に人間的・人格的な行為への「よびだし」ではないでしょうか。遊びをとおして獲得されていく、より高い精神性への飛躍によって、このような主体的人格性への自己開放が子どもに可能となるのです。遊びにおいて、子どもは確かな人格的発達を遂げています。豊かな遊び体験をもつ子どもは、実に見事に自分自身を抑え、自分の要求を後回しにして、仲間との活動を優先させる、というような社会的態度を示すような育ちを示します。今は仲間と関わってこれこれのことをやり、その後で自分の遊びをやろう、というような、主体的・社会的な判断をする子どもに成長していきます。そのような自分の生活の内容を自己選択し、自己決定していく力は、もっぱら遊びに熱中し、集中し、夢中になって、我を忘れる体験が、豊かに積み上げられてきた生活があってこそ育つ力なのです。遊びに集中し熱中する生活の中に、子ども一人ひとりの個の確立があります。遊びの中で子どもは自分の世界をつかみ、自分自身をつかんでいると同時に、人間的・文化的・社会的・歴史的な、あらゆる可能性にむかって、自分を開いていく子どもがいるのです。人間としての豊かな可能性にむかって、「開かれた未決の存在」としての子どもがいるのです。遊びにおける自己抑制というのは、自分の課題と集団の課題とを、矛盾なく統一的に捉えることのできる、いわば自己教育力を獲得した子どもにしてはじめて可能なことなのです。自己課題と社会的課題との間との緊張関係に自分をおきながら、社会的要請に呼応していく人格的責任主体としての「生きざま」を獲得した子どもが、豊かな遊び体験を通して育つのです。
2. 経験と認識との関係
参考文献[1] <マイケル・ボラニー著
『暗黙知の次元』紀伊国屋刊をめぐって>
(1)暗黙の力と内に感じる力について
”我々は語ることができるより、より多くのことを知ることができる”(p.15)
”ゲシュタルト心理学によれば、対象の外見的特徴が認知されるのは、網膜や脳に刷り込まれた要素的な諸細目が、互いにおのずと均衡のとれた状態に達することによると考えられている。しかし私はそれとは反対に・・我々が知識を探求するときに、経験を能動的に形成する活動の結果として成立すると考えている。人間が知識を発見し、また発見した知識を真実であると認めるのは、全て経験をこのように能動的に形成、あるいは統合することによって可能となる。・・この能動的形成、あるいは統合こそが、知識の成立にとって欠くことのできぬ偉大な暗黙的な力である。”(p.18)
”知覚はゲシュタルト心理学において関心の中心をなしていたが、いまや知覚は最も貧弱な形成の暗黙知と見られることになる。”(p.19)
”暗黙的な思考はすべての知識の不可欠の部分をなしている”(p.38)
”内感・・という精神の力・・暗黙的な予知”(p.42)
”人間や芸術作品の理解に適用された注目すべき暗黙知の一形式・・潜入・・人間の心を理解することは、その働きを体験することによってのみ可能であり、美学的鑑賞とは作品の中に入り、作者の心の中に潜入することである。”(p.34)
”諸細目を知ることによって事物についての真の観念が得られる、と考えることは根本的に誤った信仰なのである。”(p.37)
”包括的存在の諸細目を細かに調べるならば、意味は消失し、包括的存在の観念は破壊される。”(p.36)
”諸細目の内面化による・・回復・・暗黙的な再統合”(p.36)
”一切の暗黙知を排除した上で全ての知識を形式化する過程は、自己崩壊に陥る”(p.39)
以上、長々と引用しましたが、私たちはこれまで子どもの内面に育ちつつある様々な能力について、あまりにも無知であり、無感覚であったのではないか、という反省をこめてこれまでの児童心理学やそれに基づく指導法の見直しをしていく視点を探すために、マイケル・ボラニ-の言葉を借りました。 暗黙知とか、内感とか予知とかという心の働きは、私たち大人よりも幼児のほうが、はるかに深く鋭いものを持っているのではないでしょうか。ボラニ-はそのことを私たちに示唆しています。 ただ、現在のところ心理学は子どもの心の内奥について、余りにも知らなすぎるのです。私たちは経験から子どもの発達についての、深い謎に迫っていくしか、今のところ方法がないのです。過去五十年子どもと共に生きてきた、その実感から私は子どもの発達の秘密に迫っていきたいのです。
(2)自己意識の拡大と自由な自己開放について 人間にとって自分自身とは”開かれた未決の問い”(プレスナー)として、実に極め難いものであります。開かれ、未決である、という問いは、どのように子どもの生活のなかで現実となってくるのでしょうか。「開かれる」とは、一体どのようなことなのでしょうか。 幼稚園に入園したばかりの子どもは、心も体もコチコチに緊張して固くなっています。言葉も出ないほどの緊張ぶりで、もちろん体を自由に動かすこともできません。 そういう子どもが、少しずつ園生活に安定してくるに従って、緊張を解いてきます。そして心と体を開いてくるのです。「自己を開く」ということは、自己が自己を破り開くことであります。そして新しい可能性に向かって自己を投げ出し、開いていくことです。入園直後の子どもはそれをやってのけるのです。自由な自己開放への突破口を、子どもはどのように見つけるのでしょうか。あるいは自分を閉じ込めていた緊張感から、子どもはどのようにして自由になっていくのでしょうか。 自分の世界をつかみとっていくために、閉鎖性を解除し、また自分を開放していく力を子どもはどのように自分のものにしていくのでしょうか。「自己を開く」とは、自分の殻を破って、外へ出て行くことであり、新しい可能性に向かって自分を投げ出しいていくことであります。自分を開くというのは、自分とは異質なものを自分と結び合わせ、融合させていくことであり、また自分を異質なもの、新しい自分に変革していく営みであります。自分の今いる場所を絶対化してしまい、閉鎖性の中に留まっていたいという、根強い願いをもつ子どもは、入園後も相当長い期間、ぐずったり、泣き続けたり、動こうとしなかったりという姿を示します。しかし、間もなく、そして例外なく子どもは、自分からそのような傾向を突破して、自分の相対化と開放によって、自分の主体的な生活の仕方をつかんでいきます。自分のあり方や居場所を絶対化して、そこに留まり続けようとする思いを放棄していくこと、自分の閉鎖性を解除していくことによって、子どもは自由を手に入れるのです。幼児の場合、4,5才児よりも3才児のほうが、はるかに早く新しい環境に適応していくものです。それは、幼いほうが、生まれてからそれまでの間の環境からの影響によって、子どもの心情や感性が「損なわれる」ことが少ないからだと思われます。3才児のほうがはるかに自由で開かれた心を持っているのです。彼らは自由な試行錯誤や探索行動によって、いち早く園に慣れてしまうのです。 子どもは自由で、豊かな遊び体験を保障される生活のなかで、体験的に開放性とか、無限定性(相対性・とらわれない心)を自分のなかにとりこんでいくことができるのです。自己の相対化とか無限定性とかということは、自分の中の自己閉鎖的な世界像を打ち破ることによって、初めて可能になることです。そして自分の前に現れてくる様々な物事や事柄について、先入観などによる判断をしたり、固定化された視点を放棄することであります。そのことについては、子どもは正に天才なのです。必要な条件さえ整っていれば、子どもというのは実に自由に、そして柔軟な考え方や発想にむかって、自分自身を解放していくことができる、柔らかい感性の持ち主なのです。
(3)関係の世界へ そのような自由でとらわれない生活のなかから、子どもは「関係」の世界に、自分を開いていくのです。人間が「社会的存在として「関係の世界」に旅立っていく原点がそこにあります。人と人、人と物、そして人とことの間に、関係が生まれ、対話が成り立っていくのです。 そのことは同時に人間としての、「正常な現実性」の獲得であります。人間にとって正常なあり方とは、自分のなかで出来上がってしまい、完結している固定的な世界に生きるのではなく、「関係の世界」において、「関係-内-存在」として生きること、また自分と自分、自分と他者との「応答的-存在」として生きるとき、人は真に人間的な自由を生きることができるのではないでしょうか。 そのようなあり方と生き方こそ、人間にふさわしい正常な現実的生き方であります。 以上、細々と述べてきましたが、人間にふさわしいあり方とは、ひとりよがりの自己閉鎖的世界を、克服し乗り越えて、関係の世界に生きることによって、実現できるのだということであります。教師と子どもとの関わりのなかから生まれてくる心の同一化の世界、子どもと子どもとの関わりのなかからめばえてくる深い共感と仲間意識の世界、そこには主観(わたし)と客観(あなた)の境目が流動的になり、主観と客観の自由な入れ換えが起こるというような、生の柔構造があります。 「きょうね/えいこちゃんたら/べそかいちゃったの/そしたらね/わたしもね/なきたくなっちゃったの/だってさ/えいこちゃんのほうから/くうきがながれてきてね/それで/かなしくなっちゃったの」(ねえ、おはなしきいて・幼児のつぶやき集・全日私幼連編) 悲しい空気を共有して、友だちと一緒に涙を流した、わが園の5才児女子の口頭詩です。 友だちの痛みや悲しみを、自分のこととして共有する心には、自分と他人という区別はなくなって、共に自分の悲しみとなっているのです。実に柔らかい感性であります。 人が豊かに生きるというのは、このような柔らかい「生の柔構造」のなかにおいてなのです。 関係の世界に乗り出すことによって、人間は新しい「生の地平」を掴むことになるのです。 子どもは、仲間との出会いを通して、新しい自分との出会いを体験していきます。自分と異質なものとの出会いを、自由にその都度の具体的状況に合わせて選択し、決定していく「開かれた」自分へのまなざしを獲得していくことこそ、人間が真に人間であることにふさわしい在り方であると考えます。
(4)子どもの遊びとは、試行錯誤と探索行動の同一化、開放性と自由性の統一、無限定性と流動性の統一、自己意識の拡大とは、自己の可能性の拡大であり、そこには新しい自己に向かって自己を変革していく営みと同時に、異質なものを自己の内に融合していく営みと、二つの方向において自己を拡大・拡張していくのである。自己開放とは、自己をその都度の具体的状況への人格的・全人間的応答において規定しながらも、決して固定的・絶対的には自己を規定しないまま保留し、自己および他への自由性と開放性にとどまり続けることである。 人間は、現実的な関係を遂行し関係において生きるとき、常に古い自己から新しい自己への変革と、自己を貫徹する方向にむかって自己を突破していくような生き方を掴んでいくのである。
3. 理解・認識・人間化
参考文献[2]<F. キュンメル著
『現代解釈学入門』をめぐって>
(1)出会いと自己突破について
”外からの刺激や衝動が、流動的な内的生の躍動における内からの創造的応答とぶつかる・・・”(p.27)
”出会いにおいて自己の外へ踏み出すことによってのみ、変革されつつある自己自身へと立ち返りうる・・・”(p.27)
古い自己を突破して新しい自己に到達するための自己による自己自身への自己突破は、
”外からの衝撃や何らかの堅い現実なしには「起こりえない」”(p.29)
と同時に、
”人間自身の内に内的な根拠‥‥‥感受性や理解力という内的通路が、その人間の内になければ、全く不可能である。”(p.52)
というような、一方的・一面的見方を越え、
”その都度出くわし、呼びかけてくる現実に対し開かれたあり方をとらせること・・・完結することなく、どこまでも開かれたものとして・・・あらゆる現実をありのままにあらしめ、ありのままに出会えるようにせしめる客観的態度”(p.62)
という根源的な性格が必要なのである。このようにして、開かれた自己を獲得するとは、自己を自己自身が自己突破していくことによって獲得されていくのである。
(2)前理解について 開かれた未決の問いは、
”漠然としたものであれ、それ自身既に何かを見ている。”(p.70)
”前理解が”理解に先立つものとして前に置かれる(前提される)・・・”(p.71)
”持ち合わせの知識と・・・事柄への前もって生きた生の関連”(p.71)
とが前提となって、
”通路を切り開いていく働きにおいて開示の力を展開し、自己を越え出ていくよう指示する・・・なぜならそれは、ただ現実そのものに則してのみ活性化し、具現化し、充実しうる・・・”(p.67)
”二重の前理解を二つに分けて考えることが本質的に重要であろう”(p.71)
”・・・先行的という意味での前は・・・既に知っている、という意味と、先取り的に(含蓄的に)捉える、という意味である。・・・一方において過去の地平を指し・・・既に得た知識、ある特定の文化的伝統の中で習得した行動や思惟の様式、話し方や見方など。それは、私が現在の状況に対応するのを助け、生活連関における持続性を未来に向かって保ってくれる。”(p.74)
過去の体験が現在を支え、さらに未来を志向せしめる基盤であり、現在における豊かな体験が過去の体験のもつ様々な意味や価値を再構成し、それに新しい生命を与えながら今を充実・充満させ、さらに未来にむかって、より豊かな自己の可能性を切り開いていくのである。
(3)過去・現在と未来の関係 -「今」を生きるとは- 人間にとって現実とは、今をどのように生きるかという課題をもって自己の前におかれているものである。 そして、現実とはその都度の状況において自己のものになっていく。どのように状況に対応していくかによって、人間は自己の「今」を獲得していくのであるが、その都度の状況がもつ課題に対して、
”開かれた彼自身を常に繰り返し破り開く状況の中に生きて”(p.75)
いく者でなければならない。”状況の開かれた性格に対応”するためには、
”これまでの状況から、経験や知識として携えてきたものだけに頼ることができない”(p.75)
からである。そこで、未来の先取り的、ないし予覚的把握、あるいは先行的把握が必要となる。
”一つの事柄を先行的に内から捉え、その意味を先取りすることによってのみ、それを外的な様相においても理解しうるのである。”(p.75)
内的な直観的理解や繰り返しの模倣行動を通して、行動様式的(パターン・モデル)・体験的に事柄を理解していく生活・生活体制の重要性を確認したい。
”未来と共に、人は現在と過去を越え出ており、まさにそれ故にそれ自身開かれた、未来をはらんだ可能性としての過去に帰らねばならない‥‥‥過去は未来によって常に新しく異なった風に目覚まされ、形作られるが、それと同じだけ過去は自己の内から未来を産み出していくのである。”(p.78)
遊びの崩壊や挫折体験のもつ意味は、明瞭な自覚なしに見ていることとしての見ることから、新たな気づき-驚きながら発見することとしての見ること、すなわち創造的出来事への突破の可能性を開いていくための機会となるのである。
(4)予感について 予感は、未来に自己を開く人間にとって、
”未来を現実化していく一つの力”である。また、”先取り的前理解も・・・人間の内に理解を根源的に目ざます力”(p.81)
である。
”産まれつつある状態・・・創造の胚種において先取り的に把握しようとする・・・胚種は外から与えられながら、今や私自身の内においても生き生きとし・・・私の内から成長する。”(p.81)
”感覚は、何かを理解する折、それを胚種として自己の内に受け取り、それを養い、花や実になるまで成長させることによって理解する”(シュレーゲル:1772~1829 ドイツ ロマン派文学者) ”本質的な洞察・・・全体において直接的に生き生きと働くものがなければならない。”(p.82)
理論や言語化の営みを支えているのは、生命的・力動的な「あるもの」であり、
”生き生きとした生命感にあふれる体験を基盤として、作用力をもった胚種が吹き込まれる”ことによって、”内から成長し・・・彼を変革する力をもつ”(p.82)
ことになるのである。かくして、次のような連関が明らかになってくる。前理解→先取り的理解→自己への立ち返り・人格化→自己変革→人間化
”体験は理解の窓口であり、理解とは生命の核心、源泉である心情の働きを揺り動かす。心情は人間と世界との接点であり、内的生命と外的世界とに向かって開かれた窓である。人間の発達とは、自己の現実の理解を通して自己を自己の最内奥に導いていく営みである。”(p.84)
(5)成長への「ゆさぶり」について 子どもの試行錯誤体験のもつ意味・・・それは自己変革と自己突破のための
”ゆさぶられる体験”(p.87)
である。”自己を貫徹し・・・危機的であって同時に解放をもたらす突破・・・その前には、問い悩む動揺の時期・・・突破の後には・・・成長展開する段階が・・・新しいものを産みだしていくものとして続けられていく。” ”突破への衝撃や刺戟は・・・出会いによって、しかもただ内からのみ可能な理解としてその人間を捉え、変革することによって、理解の内的根底を目覚まさせ、形成する・・・”(p.89)
ここに教育の役割が明らかになる。教育とは自己を自己のもとに留まらせないための営みである、と同時に
”人間は、真に自己自身と関わりうる時に、自己から自由になり、自己から抜け出す・・・完全な人間とは、まさに自己を忘れた人間である。”(p.91)
4. 主体性と教育
参考文献[3]<田浦 武雄著
『新版教育哲学原理』川島書店刊をめぐって>
”主体的に自己の人生を選択できるように生徒が成長すること”(p.171)
”芸術として位置づけられる自己創造的経験領域・・・の学習は有効で・・・子どもたちが自身の世界で自ら見るものの確かな表現であり、彼ら固有のものである。”(p.172)
”生徒たちが求め、選択し、我がものにする経験・・・主体的活動が強制された活動に比べて質の高い学習を可能にする・・・”(p.173)
”教師による教授が不必要な生徒を育成すること・・・自己からはなれて立つ人間を育むこと・・・そのために教師は、自由な環境を創造する必要がある。”(p.174)
”教師は自分に忠実で・・・本心をだして子どもと対立し・・・異質で・・・甘やかしてくれない主体とぶつかることによって・・・自分が何であるかが考えられ、主体性が成り立つ。”(p.176)
5. まとめ
子どもの教育とは、あれこれの知識や技術・技能を、子どもに「授ける」ことによって子どもを「育てる」こととされてきた。知識・技能の伝達は教育における重大な課題であることは言うまでもないが、現代における教育の荒廃の主たる原因は、子どもの自己教育力・自己選択力・自己決定力を軽んじてきた結果と言っても過言ではなかろう。生活と時間の問題についていえば、人間は時間の中に投げ込まれて生きる存在であり、 さらに時間を主体的に生きる時、最も人間的でありうる存在である。命令と指示・強制の中での時間とは、いわば死んだ時間であり、動きのない時間・静止した時間・他人の時間ではないだろうか。人間にとって、そのような否定的・非人間的時間体験とはどのような意味をもつのであろうか。時間を止めたい・こんな時間は速く過ぎ去ればいい・できればこんな時間はないほうがいい、という時間。それは耐えがたい苦痛の体験であり、無論体験しないほうが望ましいが、人はそのような体験から逃げ出すことはできない。幼い子どもが、日常的にそのような状況におかれていると、多かれ少なかれ精神や感情に異常を来すことは当然のことであり、子どもが時間の逆行や停止を願うような、非生産的・非人間的な時間体験をさせてはならないのである。子どもにとっての時間と空間は、限りない可能性を含んだ力動的・感動的かつ、生命感にあふれる実体験と原体験の「場」でなければならない。そして、絶えず流動し、充実し、充満し、溢れだし、炸裂しながら、新しい自己に向かって覚醒し、よびだされていく喜びを体験していく「時間」であり「場」でなければならない。 教育の現場において我々は、教育と哲学、現象学ないし人間学、人類学との協同の必要性を痛感している。ヨーロッパの国々においては、それら諸学問間の学術的な研究体制が確立され、教育の現場と学者との共同研究が日常的に行われているが、わが国ではこれからの課題として残されていることを確認したい。近代的な自我の確立をめざしてきたプロセスの中で、最近の現象学や解釈学、あるいは科学哲学の分野における人間研究の成果は、再び主観と客観との流動的・生命的ないし力動的な統一を目指す方向にむかいつつあると思われる。人間という類いまれにして、霊妙な存在が、その生命の計り知れない豊かさに満ちあふれたあらゆる営みを、どのようにして完遂していくのか。人間一人ひとりの限りない可能性を、どのようにして実現していくのか。この課題は、我々の永遠の課題ではあるまいか。人間とは、人間にとって最後まで「問い」そのものなのである。
しかしながらそれは「開かれた未知の問い」として、人間が人間でありうる限り、そしてその問いに誠実であるかぎり、とどまることなく我々をはるか彼方に導き続ける、実り豊かな問いであり、課題である。
参考文献[4] <ランゲフェルド 『よるべなき両親』 玉大出版部刊>
”人間を創造的な課題として積極的に生きていくこと”(p.64)
そのために、
”可能な限り創造的な活動の機会を与えるような教育と教育者が必要なのである。”(p.69)
参考文献[5] <ティヤール・ド・シャルダン 『現象としての人間』 みすず書房刊>
”なぜ我々のまなざしが人間というものに特にむけられるのであろうか”
”見ること、生のすべてはここにある・・・生の本質”
”意識の高まり、言いかえるなら見る力の増大・・・生命の世界の歴史とは、宇宙の中をいっそう深く見通す力が、ますます研ぎ澄まされて完成されていく眼の形成史といえる・・・”
1986年4月