1.指導の重層構造について


第1章の2の(4)で、学習における二重構造について触れました。そのことを、別の視点から見ると、指導というのは、直接的指導と間接的指導と、二つの側面をもっているということです。 私たちは子どもとの関わりの中で、直接的指導がもつ副作用効果と潜在的効果を忘れてはなりません。 被学習者としての子どもの内面には、自己内形成者としての子どもがいます。子どもの内面にあるこの二面性を見落としてしまうと、指導とは名ばかりの「非指導」がまかり通ることになってしまうのです。

学習活動を通してさまざまな知識や技能を学んでいる子どもの中に、もう一つ別の子どもがいるという認識を、教師がしっかりと持って、子どもと関わることが大切なのです。子どもはさまざまな体験を通して自分自身の中に「自己」を獲得していきます。学習する自己の、さらに内側の奥深くに、生活の中でのすべての経験や学習を総合しつつ密やかに、時には子ども自身も気づかぬままに、子どもの内なる自己が形成されつつあるのです。経験や学習に導かれながらも、単に教師による直接的指導だけではなく、それらのもつ副作用的・潜在的な効果に助けられて、子どもは自分自身の内側において育っているのです そのことを、ここでもう一度確認しておきたいのです。

2.間接的指導の着眼点 – 待つ保育の大切さ –  


私たちは環境が子どもを育てる力をもつことを信じています。第一章でも少しふれましたが、自然や事物、仲間との出会い、地域の人々の生活や文化・伝統との出会い、充実した遊びの生活や、豊かな子どもの文化との出会い等を通して、子どもの内部に「成熟してくる」ことを信じ、やがて子どもの中から噴き出し、湧きだしてくるのを「待つ」姿勢を保育の中で大切にしたいのです。子どもを一方的に「引きまわす」指導ではなくて、子どもの中から熟成し、湧き出てくるものを、じっくりと「待つ」ことを大切にしたいのです。 ある日,ある時、ある瞬間に、突如としてその子の中に眠っていた力が、覚醒し目覚めてきて、炸裂してくるのを「待つ」のです。 「先生、先生!! 聞いて、聞いて!! あの子が今日初めてお話ししてくれたの!!」とか、「○○ちゃんが、こんなすばらしいことををした!!」という、教師の感動と喜びを巻き起こすような事例が、園生活の中に一杯あるのです。子どもの育ちを信じて待つ保育には、本当に豊かに報われる喜びがあります。

3.保育の柔構造について


第一章において「偏った指導」の一例として「本時中心主義の指導」について批判をしましたが、別の言い方をすれば、目標に金縛りにならないことであります。本時中心主義とか、目標つぶしの、画一的・形式的な受身の活動や、個性無視の指導、詰め込み・引き回しの餌やり保育、或いは決められたことを決められた時間に決められた通りに「やらせる」式の保育を否定し克服していくことが必要です。そのためには、子ども自身のものになる活動というか、子どもにとって最も取組みやすい最低限、最小限の課題をもつ活動から始めることが大切です。目標は低く立てることが、第一の原則です。そして、活動に多様性や柔軟性があることが、第二の原則となります。いくつもの選択肢があって、子どもがそれらを自由に選ぶことができるような活動であることです。第三の原則としては、子どもの工夫や気づきに対応して、多様な取組み方ができる活動を選択することです。さらに、子どもが自分自身で自由に発想したり、工夫したりして、夢中になって集中し熱中して、取組むことが保障され、一人一人の個性が十分に発揮できるような活動であることが基本的条件であります。園生活において子どもが経験する遊びや活動というのは、子どもの自主性・主体性・積極性そして意欲や自信を引き出していくものであることが、何よりも大切なのです。子どもに見える、子どもが手慣れている(経験の近似性)ことを手がかりにして、子どもの興味、関心に裏付けられ、子どもが安心し、自信をもって取り組めるようなことから出発していくのです。やがて子どもは、自分から積極的に、確かな目的意識をもって、自分の好きな活動に取りくんでいくようになっていくものなのです。さてそこで、私たちが最も大切にしておきたいことの一つは、計画や予定というものは、あくまでも予測にすぎないといことです。幼稚園における全ての活動は、子どもの発想や要求に対応し、助けられながら、教師と子どもとの共同の創造的営みとして、積み上げられていくものなのです。 私たちの指導におけるすべての場面の中で、私たちは子どもから発現してくるもの、子どもの内部から覚醒し、沸き上がり、吹き出してくる力に、人間的感動と喜びをもって、人格的に応えていくことが保育であると考えています。教師と子どもは「同労者」なのです。共に生活を生み出し、創造していくために働く共同体の一員なのです。そこでの教師のもつ柔軟性や主体性と、真の自由が、子どもの園生活の豊かさを保障するのです。保育という営みは、そのような「柔構造」に支えられて、初めて人間の教育に相応しいものとなるのです。

4.子どもの発達を保障するための条件と原則


(1) 発達とは 子どもの全人格的、全人間的な発達を保障する教育とは、学力の保障(系統的な知識・理解力・技術や技能の獲得)とか、徳性の涵養、健康な身体や身体諸機能の発達を促すことなどが゛、基本的に大切な条件ですが、さらに、子どもの全人格的な成長発達を保障するものとして、心・感性・知性等の発達を含む、人間性と創造性の発達とか、文化的発達を保障するための文化の伝承とともに、何よりも大切なこととして、創造的自己実現に向って、「自分らしさ」をつかみとり、「自分らしく生きようとする」独創的な意欲や、仲間との生活を通して獲得される、子ども一人一人の個性化とか、独自性の発達を促すことも大切な条件ではないかと思います。

(2)発達の基本原則  子どもが望ましい発達を遂げていくための、基本的原則の一つは、毎日の生活の中に、豊かな「実体験」があることです。テレビ・ゲームなどのような、バーチャル・リアリティ(架空体験)は、子どもの発達に有害であるだけで、積極的な意味や価値はありません。幼児期の子どもにとって、自分の体で体験することだけが、本当の知識となり力となるのです。この時期には、出来る限り豊かな感覚運動的体験や体で覚えていく体験、実体験を通しての情意的刺激を沢山つみ上げていくことが、決定的に大事なのです。子どもの日常生活の中に、子どもの心をゆさぶるような、ダイナミックで感動的な体験が、いっぱいあることが大切なのです。    

楽しさにあふれ、喜びに満ちた、真に感動的な時間体験を山のようにつみ上げていくことが、大事なのです。そして、子どもに寄り添う真の教師が必要なのです。子どもの体験を、教師が言語化してやることによって、子どもは自分の体験の意味や価値を理解し、自分の内に経験化していくのです。この経験の内面化という働きの繰り返しと積み上げによって、子どもは自分に自信を持ち、自分自身の主体性を築いていくのです。この主体化のくりかえしが大切なのです。子どもの発達を支える教師の役割こそ、第二の基本原則です。よき師に出会うことが、人間の一生を決める、と言われます。子どもが幼児期にどのような教師に出会うか、は実に重大な問題なのです。教師は子どもにたいして、知的・感覚的好奇心の揺さぶりをかけていく存在です。そして新しい発見と創造の喜びを共に体験していく子どもの仲間であります。さらに、子どもが自分自身の発達課題に挑戦し、困難を克服して完成と成就と自己充実の体験を、豊かに自分のものにしていくのを、傍らから支える存在なのです。

5.時間への教育について


[第一の構造]基礎構造「子どもの側に立つ」 指導なき指導というのは、もともと大変な矛盾をはらんでいる考え方であります。 しかし、これまでごく当たり前のように行われてきた、教師を中心とする「上から下への指導」を否定して、教師と子どもとが共に並んでたち、子どもの生活やそのなかでのさまざまな遊びや活動のなかから、カリキュラムを生み出してくる保育実践を実現していくためには、指導者としての教師がどのように、子どもに対して自分自身の立場をとるのかということが、第一に問われることなのです。 教師と子どもとが、共に並んで立つということ、そして子どもの内面の心によりそって、子どもの願いや思い、子どもの要求を、深く読みとっていこうとする心の姿勢をしっかりと持つことが大切なのです。 教師にとって最も大切な条件は、子どもと共に育とうとする自分自身への願いや要求をもつことであります。 子どもに学び、子どもによって育てられようとする姿勢が教師にないかぎり、この試みは無理なのです。 子どもと共に感動を共有し、子どもの喜びや悲しみを共に分かちあえる教師でないと、子どもと響存する場としての保育を生み出していくのは無理なのです。 以上のような考え方から、指導における第一の基礎構造は、「子どもの側に立つ」という、きわめて単純で当たり前の原則であります。うらがえせば、子どもの人格性の尊厳へに対する、畏敬の念を抱きえないもの、自己の内に構築しえない者は、人間の教育に関わってはならないという大原則を、第一に確認しておきたいと思うのです。

6.時間認識と空間認識の関係について –人間的生命的体験を通して–


(1)時間を質と価値において経験することの意味について。時間を質と価値において経験することで、何を獲得するのであろうか。自由な探索行動と試行錯誤的体験の積み上げを通して、自己選択・自己決定していく生活、自分で創造していく生活を体験し、そこで自分の主体認識および自己の位置の発見、行動の基点認識を獲得していくのである。(ランド・マーク=地標認識)子どもが自分の生命を十分に燃焼させ、生きていることの実感と喜びを感じ取っていく場がそこにある。この世界の中に自分の足で立ち、自分の意志でその場を確保していることを、どれほどの感激をもって子どもは受け止めているのだろうか。子どもの世界から遠く隔たりのある所にいる大人たちには、想像もできない深い意識の世界である。人格主体としての尊厳に満ちた旅立ちの日々がそこにある。

(2)自己課題に開かれていく子どもを育てる。安定した自己を獲得した子どもは、いわゆる自己同一のできた子どもである。自分の意志と力で安定した生活を営むことのできる子どもは、自己を客観的に見つめる力をもち、やりたいこと・やれること・やってもいいこと・やってはいけないこと等々について、客観的な判断ができる自由を獲得した子どもである。彼は安定した自己同一の状態にとどまってはいない。絶えず新しい自己の発見を目指して、自己の可能性に立ち向かっていく子どもである。古い自己から新しい自己に向かって、自己覚醒・自己実現の道を創造的に生きていく子どもである。

(3)時間認識と空間認識を通して関係認識が発達していく。時間の量の認識は、空間における移動体験に支えられて形成される。「ここからあそこまで走る」という体験の中に、時間認識と空間認識が形成される基礎がある。自分と物・自分と他人・自分と時間・自分と空間 等々の関係認識が、子どもの中に確かなものとして定着していくには、充分な時間と空間における自由な遊び体験が不可欠である。後の論理操作の時期を迎えるための重要な土台が、そこで作られていくのである。幼児期は、直感と悟性による全身感覚を獲得していく時であるが、単に知的発達の基盤を形つくるものではなく、生活全体にわたって生き生きと躍動する生命体を育てるためであり、子どもの中に生きる力を育てていくためである。(体験学習期の意義)

(4)個々の人格における「聖域」について  何人といえども、他人の心の中に土足で踏み込んではならない人は固有の人格をもつ存在である。人格の中心である人の心の中へ、土足を踏み入れることは人間否定を人格無視の営みである。そのことを踏まえると、個々の子どもが心に抱いている思いや願いを無視して、指導の名の元に一方的に教師の要求を押しつけることは、人間否定の「狂育」ではないか、という畏怖の思いが生まれてくる。そして、子どもの中に熟成してくるものを待つ保育への道が開かれてくるのではないだろうか。子どもの内奥にまどろんでいる力の覚醒をじっくりと待つ保育/子どもの内発的動機のよって爆発的にほとばしるエネルギーを信じて待つ保育/子どもの自治的能力に委ねていく保育/子どもに任せる保育の在り方が見えてくるのである。教師の指導の外側で、豊かに自己創造的に育っている子どもたちの熟成・醗酵・醸成されてくる力の覚醒を待つ保育を目指して努力していきたい。  

(5)時間を越えるものへの教育  教師も親も子どもも、共に悠久な人類の生命の営みの中での、かけがえのない命を生きていることを厳粛に受け止めていきたい。人間の生命の神秘とその霊妙さの前に畏敬の念をもち、さらに人間の限界の中での教育の営みであることを思い謙虚であること。永遠なるもの、時間と空間を越えるものへの人間的憧憬と聖なる畏れの思いを失わないこと。人間を超越するものへの畏敬の思い、人間を支えている大いなるものへの畏敬の思いから、人間そのものへの畏敬の思いが育っていく。教師の人間としての生きざまのすべてが、子どもに伝わることを忘れてはならない。共に生き、生かされていることへの喜びと感動を、子どもと共に歌い上げていく日々を送り、子どもと共に永遠なるものに向かって立つ姿勢を大切にしたいものである。

7.保育者にとっての時間


(1)保育者が体験すること  子どもの創造的な時間体験を保障することから生まれてくる必然的結果として、保育者が体験することは、子どもの創造的活動に学び、子どもから発見し、子どもによって育てられていく保育者への自己変革の道が開かれることである。保育者という職業を選択し、保育者であり続けることへの喜びと感動の源泉は、子どもたちの自己創造的生活に傍らから参加しうることにある、といえるのではないだろうか。賀川豊彦・・・道端の石を教材として、そこから無限の可能性を引きだす教師であること。 参考文献[1]

(2)コンラート・ローレンツ著 『遊びと発達の心理学』 黎明書房刊  コンラート・ローレンツ  1903年オーストリア生れ/1973年ノーベル医学・生物学賞  比較心理学・比較行動学・行動生理学専攻。刻印づけ(インプリンティングの研究で有名)。世代間の対立とその動物行動学的原因を探る。

●現代人の四つの特徴について  

① 即座の満足を求める衝動/待てない/長期目的への努力・自発性の減少

② 苦痛・不快に耐えられない/鎮痛剤・精神安定剤の莫大な消費傾向

③ 動こうとしない/運動量の著しい低下/肉体労働の拒否・軽蔑(肉体的怠惰は必然的に情緒の鈍さと関連する)

④ 思いやりを感じる能力の弱さ/無表情/情緒欠乏症/五無主義 等々  [結論]豊かな文明の中での人間の自己家畜化と幼稚化現象の進行 、成熟することを諦めてしまう人間の出現(伝統の拒否・文明の危機)

(3)意味を問う存在として  人間とは存在することに意味があるのではなく、存在することの意味を問う存在であること。  動物ないし生物をして存在(生きる)することから、自覚的・人格的・文化的・歴史的・社会的、すなわち人間的存在として生きる意味を追求していくために教育がある。

(4)時間を生きる  時間をどのように生きるかが、人間にとって最大の課題である。

●子どもの家庭生活から  変化のない生活/感動のない生活/感情や情緒の揺さぶりを経験しない生活(感情生活・感覚生活の危機)  居住感覚の喪失/箒のない家庭・庖丁のない家庭の出現/配置感覚の喪失(玄関に箒と塵取り 等々)/ゴミや塵に無関心/食文化の異変  清潔感覚・汚染感覚の喪失(1年間洗濯しない運動靴・風呂嫌いと毎朝シャンプー 等々)

●母親の育児の異変  あやし・子守歌の喪失/子どもと人格的な応答関係の結べない母親の出現/生活文化の伝承が困難な母親/外食産業の発達に伴う家庭の味の喪失/食べ物の季節感の喪失(大量生産大量消費の使い捨て消費文化・コマーシャリズムの影響)

●子どもの集団生活から  言語感覚・振る舞い感覚の喪失(単語・擬音だけの会話)/生への執着心や生の実感の喪失(小中学生の自殺)/交わりの喪失/自閉傾向の一般化(得意なことについては極めて饒舌・不得意なことについては緘黙・自閉)

(5)無我体験の意味  自我意識・我に帰る・自己に気づく体験の前提としての無我体験の積み重ねを通して、子どもは次第に自分の中に確かな自己意識を獲得していく。そこでは、カイオワのいう遊びにおける自己陶酔や、目まいに似た喜びや充実感を通しての自己確認や主体性の確立をもたらす重要な契機ないし動機づけがある。

8.まとめ


教育とは、人間による人間への呼び出しの営みであると同時に、人間に対する激しい揺さぶりの営みでもある。教育によって、人間は古い自己から新しい自己に向かって呼び出され、連れ出されていくのである。教育とは際立って個人的な営みであって、つまるところ個人一人ひとりの内面的な自己教育に寄るしか、具体的な手立てはないのである。どのような非人間的な人間にもなりうるという恐るべき可能性を一方にもつことを忘れてはならない。

9.補助資料  


(1)参考文献[2]ペスタロッチの教育思想 <直感より概念へ 『スイス週報』より>

”どんな人でも、少年時代に蝶を追って自分でそれを捕まえ、山野を歩き回って草花を探した経験をしたものでなければ、後にどんな研究をしても、その研究はあまり進歩するものではない。”  経験による教育、生活が教育する事実こそ、子どもの本来の書物である。

●ほの暗い直感から明確な概念への発達プロセス  ・自然体験における多様な直観的経験  ・命名の時期  ・事物の性質を確定・区別・説明する時期(叙述期/明確な定義を与える力を獲得する時期/言語の完成)

●認識の発達と言語の発達との相関関係  ・音の時期/発音する力  ・直感と命名期/事物と言葉/記号文字との結合/思慮ある行動・判断・精神活動の現れとしての言葉  ・抽象・想像・認識したものについての比較・分析・統合・表現力/能動的思考作用による本質概念の把握(直感の教育)

●自己活動の原理  人格の尊重”人間の諸能力はただ単にそれを使うという単純な方法によってのみ、合自然的に発達する”  自己自身の力と活動を通して、子どもを内から発達させること。

●二つの方法論的原則

・初歩的前進の原則(子どもを、学問の発見者自身がとった道におくこと)  

・物理的遠近法の原理(近くから遠くへ/真理の認識は自己自身の認識から始まる/自己および家族との関係から人類との関係へ/直感から認識へ)

参考文献[3] <梅根 悟著 『世界教育史』 新評論刊より>

”変化に富み、創意を働かせて、互いに励ましあいながら営まれる親子同士の農耕的生産生活こそ、真の自然的な教育の場であるが、それはマニュファクチュア生産の侵入によって崩れ去りつつある。だから、学校は新たな使命、すなわちこの失われつつある生活教育の自然の場にかわって、人為的な生活教育の場を子どもたちに提供する使命をもって新しく作り直さなければならぬ・・・これがペスタロッチの学校観であった。

・・・経済社会の変化・・・教育的環境の喪失・・・時代的疾病への対策・・・

教育が何を為すべきが、また何を為すことができるかを考え抜こうとしたものであった。”(p.279)

(2)参考文献[4]メルロ・ポンティ著 『知覚の現象学』 みすず書房刊より

<第三部 第二章 時間性>

”時間こそ生の意味(センス)である。”  【意味:センス。水の流れの向き/文章の意味/布地の織り目/匂いの感覚という言い方に現れてくるような】クローデル「詩法」より  ”時間と主観性との密接な関係、主観が時間的であるのは、人間の・・・内的必然性による。主観と時間とが内的に交流しあえるような考え方を形成していく。出来事とは客観的世界の空間的・時間的全体の中から有限な観察者によって切り取られてくるものなのである。出来事とは、それを経験する誰かがいなければありはしない。その誰かの有限な視角こそ出来事の個体性を基礎づけている。時間とは、物に対する私の関係から生まれるのだ。私が時間と接触し、時間の流れを学び知るのは、私の広い意味での現前野・・すなわち、その背後には流れた一日の地平をもち、その前方には夕暮れと夜の地平をもった、私が働いて過ごすこの瞬間・・においてである。もっと遠い過去も、それはそれまで、またその時間秩序をもち、私の現在との時間的位置をもってはいるが、しかしそれは、その過去がそれ自身、かつて現在であったからであり、私の生をよぎったからであり、私の生が今にいたるまで続けられてきているからなのである。・・・この現前野こそ時間・・が・・・究極的な明証性のうちに生身で現れてくる根源的経験だからである。未来が現在へ、そしてさらに過去へ流れるように移っていくのを我々が見るのも、ここにおいてなのである。時間とは、ちょうどひとつの所作がそれを実現するのに必要なすべての筋収縮を含んでいるように、そのあらゆる部分において自己自身に適合する特異な運動である。過去は過ぎ去ってしまったわけでないし、未来はまだ来ないでいるわけでもない。・・・過去と未来は、私がそれらに向かって自己を押し広げるときに湧出するのである。私自身にとって私は、今のこの時間に存在しているのではなく、今日の朝にも、来るべき夜に対しても存在しているのであり、私の現在とは、この瞬間だといっても構わないが、しかしそれはまた、今日でもあれば今年でもあり私の全生涯でもあるのだ。  ・・・現在から他の現在への移行を、私は思惟したり、傍観したりするのではなく、遂行するのであり・・・時間の中心にひとつのまなざし・・・誰かがいる・・・。時間は誰かであるということ。・・・時間の諸次元は、それらが絶えず相互に重なり合うものであるかぎり、相互に確認しあい、それぞれのうちに含蓄されていたものを顕在化する以外のことは決してないし、そのすべてがただひとつの炸裂ないしただひとつの推力を表出しているのだが、その推力こそが主観性にほかならない。時間を主観として、主観を時間として了解しなければならないのである。永遠性は時間によって養われている。永遠性とは夢の時間であるが、夢は覚醒に送り返されるし、そのすべての構造を覚醒から借りてきているのである。・・・永遠性が底に根を下ろしているこの目覚めた時間・・・過去と未来という二重の地平をともなった広い意味での現前野であり・・・開放的に無限な現前野なのである。・・・時間の中に置かれ・・・そこに巻き込まれている自分を発見し・・・私の前の画面にはまらず・・・私にはそれを見ることができないようになっているからこそ、私にとって時間があるのだ。・・・私がひとつの現在をもっているからこそ、私にとって時間があるのである。現在・・・時間の一瞬は・・・決定的一回性を獲得する。主観は時間性であるとしたら・・・それこそがまさしく生きた時間の本質を示すものだ。・・・時間は自己による自己の触発である。・・・必然的に自らに自己自身の現れをあたえ・・・。現象としての自己を自己自身へと構成するのであり、単に現実的時間ないし流れる時間であるだけでなく、自己を知る時間でもあるということが時間にとっては本質的なのである。というのも、現在の未来への炸裂ないし裂開こそが自己の自己への関係の原型なのであり、それこそが内面性ないし自己性を粗描するものだからである。ここに一条の光が射し込む・・・それ自身に安らえる存在者ではなく、その全本質が光のそれのように、見せるという存在者・・・主観性とは、自己との不動の同一性のことではない。主観性であるためには他に開かれ、自己から離れるということが、時間にとってと同様に主観性にとっても本質的なことなのである。

<第三部 第三章 自由>   

・・・私が自由であるとしたら、それは、私が物ではないからなのであり、そうだとすれば、私は絶えず自由であるのでなくてはならない。我々は単に因果性の観念だけでなく、動機づけの観念をも放棄しなければならない。・・・動機が私の決心に重圧をかけるのではなく、逆に、私の決心が動機にその力を貸し与えているのである。・・・人間存在が私に課せられ・・・その在り方だけは私の選択に委ねられている。・・自由が自らその発意によって制限として限定したものを除けば、自由を制限しうるようなものは何もなく、主観は自らが己に与えたもの以外に外的なものはもたないことになる。主観が登場してはじめて、物のうちに意味や価値を出現せしめるのだし、主観によって意味や価値にされなければ、何ものも主観のもとには達しえないのであるから、物の主観に対する働きかけなどというものはないのであって、あるのはただ能動的意味での意味作用、遠心的な意味付与だけなのである。自由とは一体何であるのか。生まれるということは、世界から生まれることであると同時に世界へと生まれることである。世界はすでに構成されているが、しかしまた決して完全には構成されていない。・・・世界によって促され・・・無限の可能性に開かれている。・・・我々は同時に両方の関係のもとに実存している。私が無制限に、そして、何の保留もなしに現在私があるところのものであるによってこそ、私は前進する機会をもつのであり、私の時間を生きることによってこそ、私は他の時間をも理解しうるのであり・・・私の意思するものを意思し、私がなすことをなすことによってこそ、私はその向こうに進むこともできるのだ。私が自由をもたずに居られるとすれば、それは、私が己の自然的、社会的状況をまず引き受け、それを通して自然的および人間的世界に達するというやり方を否定して、それらの状況を越え出てしまおうとするときだけである。外から私を限定するようなものは何もないが、それは、私を促すものが何もないという意味ではなく、逆に私がはじめから私の外におり、世界に開かれているからなのだ。・・・我々は、物のように単に世界の中に存在するのではなく、世界内存在しているという、ただその一事だけで、我々と共に、我々が乗りこえねばならぬ全てのものをももっているのである。 ・・・自由そのものを欲するのでなければ、自己自身を欲することもできない。

 1981年1月

1.指導の重層構造について


第1章の2の(4)で、学習における二重構造について触れました。そのことを、別の視点から見ると、指導というのは、直接的指導と間接的指導と、二つの側面をもっているということです。 私たちは子どもとの関わりの中で、直接的指導がもつ副作用効果と潜在的効果を忘れてはなりません。 被学習者としての子どもの内面には、自己内形成者としての子どもがいます。子どもの内面にあるこの二面性を見落としてしまうと、指導とは名ばかりの「非指導」がまかり通ることになってしまうのです。

学習活動を通してさまざまな知識や技能を学んでいる子どもの中に、もう一つ別の子どもがいるという認識を、教師がしっかりと持って、子どもと関わることが大切なのです。子どもはさまざまな体験を通して自分自身の中に「自己」を獲得していきます。学習する自己の、さらに内側の奥深くに、生活の中でのすべての経験や学習を総合しつつ密やかに、時には子ども自身も気づかぬままに、子どもの内なる自己が形成されつつあるのです。経験や学習に導かれながらも、単に教師による直接的指導だけではなく、それらのもつ副作用的・潜在的な効果に助けられて、子どもは自分自身の内側において育っているのです そのことを、ここでもう一度確認しておきたいのです。

2.間接的指導の着眼点 – 待つ保育の大切さ –  


私たちは環境が子どもを育てる力をもつことを信じています。第一章でも少しふれましたが、自然や事物、仲間との出会い、地域の人々の生活や文化・伝統との出会い、充実した遊びの生活や、豊かな子どもの文化との出会い等を通して、子どもの内部に「成熟してくる」ことを信じ、やがて子どもの中から噴き出し、湧きだしてくるのを「待つ」姿勢を保育の中で大切にしたいのです。子どもを一方的に「引きまわす」指導ではなくて、子どもの中から熟成し、湧き出てくるものを、じっくりと「待つ」ことを大切にしたいのです。 ある日,ある時、ある瞬間に、突如としてその子の中に眠っていた力が、覚醒し目覚めてきて、炸裂してくるのを「待つ」のです。 「先生、先生!! 聞いて、聞いて!! あの子が今日初めてお話ししてくれたの!!」とか、「○○ちゃんが、こんなすばらしいことををした!!」という、教師の感動と喜びを巻き起こすような事例が、園生活の中に一杯あるのです。子どもの育ちを信じて待つ保育には、本当に豊かに報われる喜びがあります。

3.保育の柔構造について


第一章において「偏った指導」の一例として「本時中心主義の指導」について批判をしましたが、別の言い方をすれば、目標に金縛りにならないことであります。本時中心主義とか、目標つぶしの、画一的・形式的な受身の活動や、個性無視の指導、詰め込み・引き回しの餌やり保育、或いは決められたことを決められた時間に決められた通りに「やらせる」式の保育を否定し克服していくことが必要です。そのためには、子ども自身のものになる活動というか、子どもにとって最も取組みやすい最低限、最小限の課題をもつ活動から始めることが大切です。目標は低く立てることが、第一の原則です。そして、活動に多様性や柔軟性があることが、第二の原則となります。いくつもの選択肢があって、子どもがそれらを自由に選ぶことができるような活動であることです。第三の原則としては、子どもの工夫や気づきに対応して、多様な取組み方ができる活動を選択することです。さらに、子どもが自分自身で自由に発想したり、工夫したりして、夢中になって集中し熱中して、取組むことが保障され、一人一人の個性が十分に発揮できるような活動であることが基本的条件であります。園生活において子どもが経験する遊びや活動というのは、子どもの自主性・主体性・積極性そして意欲や自信を引き出していくものであることが、何よりも大切なのです。子どもに見える、子どもが手慣れている(経験の近似性)ことを手がかりにして、子どもの興味、関心に裏付けられ、子どもが安心し、自信をもって取り組めるようなことから出発していくのです。やがて子どもは、自分から積極的に、確かな目的意識をもって、自分の好きな活動に取りくんでいくようになっていくものなのです。さてそこで、私たちが最も大切にしておきたいことの一つは、計画や予定というものは、あくまでも予測にすぎないといことです。幼稚園における全ての活動は、子どもの発想や要求に対応し、助けられながら、教師と子どもとの共同の創造的営みとして、積み上げられていくものなのです。 私たちの指導におけるすべての場面の中で、私たちは子どもから発現してくるもの、子どもの内部から覚醒し、沸き上がり、吹き出してくる力に、人間的感動と喜びをもって、人格的に応えていくことが保育であると考えています。教師と子どもは「同労者」なのです。共に生活を生み出し、創造していくために働く共同体の一員なのです。そこでの教師のもつ柔軟性や主体性と、真の自由が、子どもの園生活の豊かさを保障するのです。保育という営みは、そのような「柔構造」に支えられて、初めて人間の教育に相応しいものとなるのです。

4.子どもの発達を保障するための条件と原則


(1) 発達とは 子どもの全人格的、全人間的な発達を保障する教育とは、学力の保障(系統的な知識・理解力・技術や技能の獲得)とか、徳性の涵養、健康な身体や身体諸機能の発達を促すことなどが゛、基本的に大切な条件ですが、さらに、子どもの全人格的な成長発達を保障するものとして、心・感性・知性等の発達を含む、人間性と創造性の発達とか、文化的発達を保障するための文化の伝承とともに、何よりも大切なこととして、創造的自己実現に向って、「自分らしさ」をつかみとり、「自分らしく生きようとする」独創的な意欲や、仲間との生活を通して獲得される、子ども一人一人の個性化とか、独自性の発達を促すことも大切な条件ではないかと思います。

(2)発達の基本原則  子どもが望ましい発達を遂げていくための、基本的原則の一つは、毎日の生活の中に、豊かな「実体験」があることです。テレビ・ゲームなどのような、バーチャル・リアリティ(架空体験)は、子どもの発達に有害であるだけで、積極的な意味や価値はありません。幼児期の子どもにとって、自分の体で体験することだけが、本当の知識となり力となるのです。この時期には、出来る限り豊かな感覚運動的体験や体で覚えていく体験、実体験を通しての情意的刺激を沢山つみ上げていくことが、決定的に大事なのです。子どもの日常生活の中に、子どもの心をゆさぶるような、ダイナミックで感動的な体験が、いっぱいあることが大切なのです。    

楽しさにあふれ、喜びに満ちた、真に感動的な時間体験を山のようにつみ上げていくことが、大事なのです。そして、子どもに寄り添う真の教師が必要なのです。子どもの体験を、教師が言語化してやることによって、子どもは自分の体験の意味や価値を理解し、自分の内に経験化していくのです。この経験の内面化という働きの繰り返しと積み上げによって、子どもは自分に自信を持ち、自分自身の主体性を築いていくのです。この主体化のくりかえしが大切なのです。子どもの発達を支える教師の役割こそ、第二の基本原則です。よき師に出会うことが、人間の一生を決める、と言われます。子どもが幼児期にどのような教師に出会うか、は実に重大な問題なのです。教師は子どもにたいして、知的・感覚的好奇心の揺さぶりをかけていく存在です。そして新しい発見と創造の喜びを共に体験していく子どもの仲間であります。さらに、子どもが自分自身の発達課題に挑戦し、困難を克服して完成と成就と自己充実の体験を、豊かに自分のものにしていくのを、傍らから支える存在なのです。

5.時間への教育について


[第一の構造]基礎構造「子どもの側に立つ」 指導なき指導というのは、もともと大変な矛盾をはらんでいる考え方であります。 しかし、これまでごく当たり前のように行われてきた、教師を中心とする「上から下への指導」を否定して、教師と子どもとが共に並んでたち、子どもの生活やそのなかでのさまざまな遊びや活動のなかから、カリキュラムを生み出してくる保育実践を実現していくためには、指導者としての教師がどのように、子どもに対して自分自身の立場をとるのかということが、第一に問われることなのです。 教師と子どもとが、共に並んで立つということ、そして子どもの内面の心によりそって、子どもの願いや思い、子どもの要求を、深く読みとっていこうとする心の姿勢をしっかりと持つことが大切なのです。 教師にとって最も大切な条件は、子どもと共に育とうとする自分自身への願いや要求をもつことであります。 子どもに学び、子どもによって育てられようとする姿勢が教師にないかぎり、この試みは無理なのです。 子どもと共に感動を共有し、子どもの喜びや悲しみを共に分かちあえる教師でないと、子どもと響存する場としての保育を生み出していくのは無理なのです。 以上のような考え方から、指導における第一の基礎構造は、「子どもの側に立つ」という、きわめて単純で当たり前の原則であります。うらがえせば、子どもの人格性の尊厳へに対する、畏敬の念を抱きえないもの、自己の内に構築しえない者は、人間の教育に関わってはならないという大原則を、第一に確認しておきたいと思うのです。

6.時間認識と空間認識の関係について –人間的生命的体験を通して–


(1)時間を質と価値において経験することの意味について。時間を質と価値において経験することで、何を獲得するのであろうか。自由な探索行動と試行錯誤的体験の積み上げを通して、自己選択・自己決定していく生活、自分で創造していく生活を体験し、そこで自分の主体認識および自己の位置の発見、行動の基点認識を獲得していくのである。(ランド・マーク=地標認識)子どもが自分の生命を十分に燃焼させ、生きていることの実感と喜びを感じ取っていく場がそこにある。この世界の中に自分の足で立ち、自分の意志でその場を確保していることを、どれほどの感激をもって子どもは受け止めているのだろうか。子どもの世界から遠く隔たりのある所にいる大人たちには、想像もできない深い意識の世界である。人格主体としての尊厳に満ちた旅立ちの日々がそこにある。

(2)自己課題に開かれていく子どもを育てる。安定した自己を獲得した子どもは、いわゆる自己同一のできた子どもである。自分の意志と力で安定した生活を営むことのできる子どもは、自己を客観的に見つめる力をもち、やりたいこと・やれること・やってもいいこと・やってはいけないこと等々について、客観的な判断ができる自由を獲得した子どもである。彼は安定した自己同一の状態にとどまってはいない。絶えず新しい自己の発見を目指して、自己の可能性に立ち向かっていく子どもである。古い自己から新しい自己に向かって、自己覚醒・自己実現の道を創造的に生きていく子どもである。

(3)時間認識と空間認識を通して関係認識が発達していく。時間の量の認識は、空間における移動体験に支えられて形成される。「ここからあそこまで走る」という体験の中に、時間認識と空間認識が形成される基礎がある。自分と物・自分と他人・自分と時間・自分と空間 等々の関係認識が、子どもの中に確かなものとして定着していくには、充分な時間と空間における自由な遊び体験が不可欠である。後の論理操作の時期を迎えるための重要な土台が、そこで作られていくのである。幼児期は、直感と悟性による全身感覚を獲得していく時であるが、単に知的発達の基盤を形つくるものではなく、生活全体にわたって生き生きと躍動する生命体を育てるためであり、子どもの中に生きる力を育てていくためである。(体験学習期の意義)

(4)個々の人格における「聖域」について  何人といえども、他人の心の中に土足で踏み込んではならない人は固有の人格をもつ存在である。人格の中心である人の心の中へ、土足を踏み入れることは人間否定を人格無視の営みである。そのことを踏まえると、個々の子どもが心に抱いている思いや願いを無視して、指導の名の元に一方的に教師の要求を押しつけることは、人間否定の「狂育」ではないか、という畏怖の思いが生まれてくる。そして、子どもの中に熟成してくるものを待つ保育への道が開かれてくるのではないだろうか。子どもの内奥にまどろんでいる力の覚醒をじっくりと待つ保育/子どもの内発的動機のよって爆発的にほとばしるエネルギーを信じて待つ保育/子どもの自治的能力に委ねていく保育/子どもに任せる保育の在り方が見えてくるのである。教師の指導の外側で、豊かに自己創造的に育っている子どもたちの熟成・醗酵・醸成されてくる力の覚醒を待つ保育を目指して努力していきたい。  

(5)時間を越えるものへの教育  教師も親も子どもも、共に悠久な人類の生命の営みの中での、かけがえのない命を生きていることを厳粛に受け止めていきたい。人間の生命の神秘とその霊妙さの前に畏敬の念をもち、さらに人間の限界の中での教育の営みであることを思い謙虚であること。永遠なるもの、時間と空間を越えるものへの人間的憧憬と聖なる畏れの思いを失わないこと。人間を超越するものへの畏敬の思い、人間を支えている大いなるものへの畏敬の思いから、人間そのものへの畏敬の思いが育っていく。教師の人間としての生きざまのすべてが、子どもに伝わることを忘れてはならない。共に生き、生かされていることへの喜びと感動を、子どもと共に歌い上げていく日々を送り、子どもと共に永遠なるものに向かって立つ姿勢を大切にしたいものである。

7.保育者にとっての時間


(1)保育者が体験すること  子どもの創造的な時間体験を保障することから生まれてくる必然的結果として、保育者が体験することは、子どもの創造的活動に学び、子どもから発見し、子どもによって育てられていく保育者への自己変革の道が開かれることである。保育者という職業を選択し、保育者であり続けることへの喜びと感動の源泉は、子どもたちの自己創造的生活に傍らから参加しうることにある、といえるのではないだろうか。賀川豊彦・・・道端の石を教材として、そこから無限の可能性を引きだす教師であること。 参考文献[1]

(2)コンラート・ローレンツ著 『遊びと発達の心理学』 黎明書房刊  コンラート・ローレンツ  1903年オーストリア生れ/1973年ノーベル医学・生物学賞  比較心理学・比較行動学・行動生理学専攻。刻印づけ(インプリンティングの研究で有名)。世代間の対立とその動物行動学的原因を探る。

●現代人の四つの特徴について  

① 即座の満足を求める衝動/待てない/長期目的への努力・自発性の減少

② 苦痛・不快に耐えられない/鎮痛剤・精神安定剤の莫大な消費傾向

③ 動こうとしない/運動量の著しい低下/肉体労働の拒否・軽蔑(肉体的怠惰は必然的に情緒の鈍さと関連する)

④ 思いやりを感じる能力の弱さ/無表情/情緒欠乏症/五無主義 等々  [結論]豊かな文明の中での人間の自己家畜化と幼稚化現象の進行 、成熟することを諦めてしまう人間の出現(伝統の拒否・文明の危機)

(3)意味を問う存在として  人間とは存在することに意味があるのではなく、存在することの意味を問う存在であること。  動物ないし生物をして存在(生きる)することから、自覚的・人格的・文化的・歴史的・社会的、すなわち人間的存在として生きる意味を追求していくために教育がある。

(4)時間を生きる  時間をどのように生きるかが、人間にとって最大の課題である。

●子どもの家庭生活から  変化のない生活/感動のない生活/感情や情緒の揺さぶりを経験しない生活(感情生活・感覚生活の危機)  居住感覚の喪失/箒のない家庭・庖丁のない家庭の出現/配置感覚の喪失(玄関に箒と塵取り 等々)/ゴミや塵に無関心/食文化の異変  清潔感覚・汚染感覚の喪失(1年間洗濯しない運動靴・風呂嫌いと毎朝シャンプー 等々)

●母親の育児の異変  あやし・子守歌の喪失/子どもと人格的な応答関係の結べない母親の出現/生活文化の伝承が困難な母親/外食産業の発達に伴う家庭の味の喪失/食べ物の季節感の喪失(大量生産大量消費の使い捨て消費文化・コマーシャリズムの影響)

●子どもの集団生活から  言語感覚・振る舞い感覚の喪失(単語・擬音だけの会話)/生への執着心や生の実感の喪失(小中学生の自殺)/交わりの喪失/自閉傾向の一般化(得意なことについては極めて饒舌・不得意なことについては緘黙・自閉)

(5)無我体験の意味  自我意識・我に帰る・自己に気づく体験の前提としての無我体験の積み重ねを通して、子どもは次第に自分の中に確かな自己意識を獲得していく。そこでは、カイオワのいう遊びにおける自己陶酔や、目まいに似た喜びや充実感を通しての自己確認や主体性の確立をもたらす重要な契機ないし動機づけがある。

8.まとめ


教育とは、人間による人間への呼び出しの営みであると同時に、人間に対する激しい揺さぶりの営みでもある。教育によって、人間は古い自己から新しい自己に向かって呼び出され、連れ出されていくのである。教育とは際立って個人的な営みであって、つまるところ個人一人ひとりの内面的な自己教育に寄るしか、具体的な手立てはないのである。どのような非人間的な人間にもなりうるという恐るべき可能性を一方にもつことを忘れてはならない。

9.補助資料  


(1)参考文献[2]ペスタロッチの教育思想 <直感より概念へ 『スイス週報』より>

”どんな人でも、少年時代に蝶を追って自分でそれを捕まえ、山野を歩き回って草花を探した経験をしたものでなければ、後にどんな研究をしても、その研究はあまり進歩するものではない。”  経験による教育、生活が教育する事実こそ、子どもの本来の書物である。

●ほの暗い直感から明確な概念への発達プロセス  ・自然体験における多様な直観的経験  ・命名の時期  ・事物の性質を確定・区別・説明する時期(叙述期/明確な定義を与える力を獲得する時期/言語の完成)

●認識の発達と言語の発達との相関関係  ・音の時期/発音する力  ・直感と命名期/事物と言葉/記号文字との結合/思慮ある行動・判断・精神活動の現れとしての言葉  ・抽象・想像・認識したものについての比較・分析・統合・表現力/能動的思考作用による本質概念の把握(直感の教育)

●自己活動の原理  人格の尊重”人間の諸能力はただ単にそれを使うという単純な方法によってのみ、合自然的に発達する”  自己自身の力と活動を通して、子どもを内から発達させること。

●二つの方法論的原則

・初歩的前進の原則(子どもを、学問の発見者自身がとった道におくこと)  

・物理的遠近法の原理(近くから遠くへ/真理の認識は自己自身の認識から始まる/自己および家族との関係から人類との関係へ/直感から認識へ)

参考文献[3] <梅根 悟著 『世界教育史』 新評論刊より>

”変化に富み、創意を働かせて、互いに励ましあいながら営まれる親子同士の農耕的生産生活こそ、真の自然的な教育の場であるが、それはマニュファクチュア生産の侵入によって崩れ去りつつある。だから、学校は新たな使命、すなわちこの失われつつある生活教育の自然の場にかわって、人為的な生活教育の場を子どもたちに提供する使命をもって新しく作り直さなければならぬ・・・これがペスタロッチの学校観であった。

・・・経済社会の変化・・・教育的環境の喪失・・・時代的疾病への対策・・・

教育が何を為すべきが、また何を為すことができるかを考え抜こうとしたものであった。”(p.279)

(2)参考文献[4]メルロ・ポンティ著 『知覚の現象学』 みすず書房刊より

<第三部 第二章 時間性>

”時間こそ生の意味(センス)である。”  【意味:センス。水の流れの向き/文章の意味/布地の織り目/匂いの感覚という言い方に現れてくるような】クローデル「詩法」より  ”時間と主観性との密接な関係、主観が時間的であるのは、人間の・・・内的必然性による。主観と時間とが内的に交流しあえるような考え方を形成していく。出来事とは客観的世界の空間的・時間的全体の中から有限な観察者によって切り取られてくるものなのである。出来事とは、それを経験する誰かがいなければありはしない。その誰かの有限な視角こそ出来事の個体性を基礎づけている。時間とは、物に対する私の関係から生まれるのだ。私が時間と接触し、時間の流れを学び知るのは、私の広い意味での現前野・・すなわち、その背後には流れた一日の地平をもち、その前方には夕暮れと夜の地平をもった、私が働いて過ごすこの瞬間・・においてである。もっと遠い過去も、それはそれまで、またその時間秩序をもち、私の現在との時間的位置をもってはいるが、しかしそれは、その過去がそれ自身、かつて現在であったからであり、私の生をよぎったからであり、私の生が今にいたるまで続けられてきているからなのである。・・・この現前野こそ時間・・が・・・究極的な明証性のうちに生身で現れてくる根源的経験だからである。未来が現在へ、そしてさらに過去へ流れるように移っていくのを我々が見るのも、ここにおいてなのである。時間とは、ちょうどひとつの所作がそれを実現するのに必要なすべての筋収縮を含んでいるように、そのあらゆる部分において自己自身に適合する特異な運動である。過去は過ぎ去ってしまったわけでないし、未来はまだ来ないでいるわけでもない。・・・過去と未来は、私がそれらに向かって自己を押し広げるときに湧出するのである。私自身にとって私は、今のこの時間に存在しているのではなく、今日の朝にも、来るべき夜に対しても存在しているのであり、私の現在とは、この瞬間だといっても構わないが、しかしそれはまた、今日でもあれば今年でもあり私の全生涯でもあるのだ。  ・・・現在から他の現在への移行を、私は思惟したり、傍観したりするのではなく、遂行するのであり・・・時間の中心にひとつのまなざし・・・誰かがいる・・・。時間は誰かであるということ。・・・時間の諸次元は、それらが絶えず相互に重なり合うものであるかぎり、相互に確認しあい、それぞれのうちに含蓄されていたものを顕在化する以外のことは決してないし、そのすべてがただひとつの炸裂ないしただひとつの推力を表出しているのだが、その推力こそが主観性にほかならない。時間を主観として、主観を時間として了解しなければならないのである。永遠性は時間によって養われている。永遠性とは夢の時間であるが、夢は覚醒に送り返されるし、そのすべての構造を覚醒から借りてきているのである。・・・永遠性が底に根を下ろしているこの目覚めた時間・・・過去と未来という二重の地平をともなった広い意味での現前野であり・・・開放的に無限な現前野なのである。・・・時間の中に置かれ・・・そこに巻き込まれている自分を発見し・・・私の前の画面にはまらず・・・私にはそれを見ることができないようになっているからこそ、私にとって時間があるのだ。・・・私がひとつの現在をもっているからこそ、私にとって時間があるのである。現在・・・時間の一瞬は・・・決定的一回性を獲得する。主観は時間性であるとしたら・・・それこそがまさしく生きた時間の本質を示すものだ。・・・時間は自己による自己の触発である。・・・必然的に自らに自己自身の現れをあたえ・・・。現象としての自己を自己自身へと構成するのであり、単に現実的時間ないし流れる時間であるだけでなく、自己を知る時間でもあるということが時間にとっては本質的なのである。というのも、現在の未来への炸裂ないし裂開こそが自己の自己への関係の原型なのであり、それこそが内面性ないし自己性を粗描するものだからである。ここに一条の光が射し込む・・・それ自身に安らえる存在者ではなく、その全本質が光のそれのように、見せるという存在者・・・主観性とは、自己との不動の同一性のことではない。主観性であるためには他に開かれ、自己から離れるということが、時間にとってと同様に主観性にとっても本質的なことなのである。

<第三部 第三章 自由>   

・・・私が自由であるとしたら、それは、私が物ではないからなのであり、そうだとすれば、私は絶えず自由であるのでなくてはならない。我々は単に因果性の観念だけでなく、動機づけの観念をも放棄しなければならない。・・・動機が私の決心に重圧をかけるのではなく、逆に、私の決心が動機にその力を貸し与えているのである。・・・人間存在が私に課せられ・・・その在り方だけは私の選択に委ねられている。・・自由が自らその発意によって制限として限定したものを除けば、自由を制限しうるようなものは何もなく、主観は自らが己に与えたもの以外に外的なものはもたないことになる。主観が登場してはじめて、物のうちに意味や価値を出現せしめるのだし、主観によって意味や価値にされなければ、何ものも主観のもとには達しえないのであるから、物の主観に対する働きかけなどというものはないのであって、あるのはただ能動的意味での意味作用、遠心的な意味付与だけなのである。自由とは一体何であるのか。生まれるということは、世界から生まれることであると同時に世界へと生まれることである。世界はすでに構成されているが、しかしまた決して完全には構成されていない。・・・世界によって促され・・・無限の可能性に開かれている。・・・我々は同時に両方の関係のもとに実存している。私が無制限に、そして、何の保留もなしに現在私があるところのものであるによってこそ、私は前進する機会をもつのであり、私の時間を生きることによってこそ、私は他の時間をも理解しうるのであり・・・私の意思するものを意思し、私がなすことをなすことによってこそ、私はその向こうに進むこともできるのだ。私が自由をもたずに居られるとすれば、それは、私が己の自然的、社会的状況をまず引き受け、それを通して自然的および人間的世界に達するというやり方を否定して、それらの状況を越え出てしまおうとするときだけである。外から私を限定するようなものは何もないが、それは、私を促すものが何もないという意味ではなく、逆に私がはじめから私の外におり、世界に開かれているからなのだ。・・・我々は、物のように単に世界の中に存在するのではなく、世界内存在しているという、ただその一事だけで、我々と共に、我々が乗りこえねばならぬ全てのものをももっているのである。 ・・・自由そのものを欲するのでなければ、自己自身を欲することもできない。

 1981年1月